ルマン24時間耐久レース。その100年近い歴史の中には、スポーツの域を超え”戦争”とまで呼ばれた時代がありました。いくつかの視点から紐解く、フォードVSフェラーリのメーカー対決。今回はフォードを優勝させる為に雇われた男、キャロル・シェルビーに迫ります。
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自前のマシンでレースへ。キャロル・シェルビーの原点
キャロル・シェルビーは1923年、テキサス州リーズバーグの郵便屋を営む家庭に生まれます。
14歳で免許を取り、ハイスクール時代にはJeepの前身 ウィリス社のクルマを乗り回し、ドライビングに熱中。
当時、若気の至りで公道を140km/hで走り、警察に捕まったエピソードからは、シェルビーのアウトローな一面が垣間見えます。
その後1943年にはアメリカ空軍に入隊し、パイロット養成所の教官やテストパイロットの任に就くなど、一時はエリートへの道を躍進。
終戦以降は軍隊を離れ、養鶏を営んだシェルビーですが、ワトキンス・グレンで開催されたロードレースに出場したことをきっかけに、モータースポーツに魅せられていきます。
当時、アメリカ製の本格スポーツカーは未だに存在せず、レースの主役はヨーロッパから輸入されたマシンでした。
一方、アメリカの誇る大排気量エンジンには、それらにはない圧倒的なパワーがあったのです。
そこでシェルビーは「ヨーロッパ製の車体にアメリカンV8を積んだら速いハズだ」と考えました。
そして彼は、ブガッティのレプリカなどを製造していた英国 Allard社製の車体に、アメリカ製 V8エンジンを載せてレースに出場。
この経験は、後の「シェルビー・コブラ」誕生への布石となりました。
自作のマシンで数多くの勝利を手にし、凄腕レーサーとして名を挙げた彼には、ヨーロッパのトップチームからのオファーも届くようになります。
そして1958年にはF1へのスポット参戦も果たしており、一流ドライバーへの道を突き進んでいったのです。
ドライバーとしてルマン制覇!しかしその年に引退?
キャロル・シェルビーにとって最大の転機は、1959年に訪れます。
アストンマーチンのワークスドライバーとして、ル・マン24時間に初出場した彼は、強敵フェラーリを打ち破り、総合優勝を勝ち取ります。
しかしル・マン優勝の年、早くも彼はレーシングドライバーとしてのキャリアに終止符を打つ決意をしていました。
キャリアはまさに絶頂でしたが、持病の心臓疾患により、レーサーを続ける事が難しくなっていたのです。
そのため、ル・マンへもギリギリまで参加をためらっていましたが、ニトログリセリンを飲みながら、なんとか乗り切る事に。
こうしてマシンを降りた彼ですが、レース以外の生き方など眼中にはありません。
現役を引退すると、すぐにシェルビーは世界中から集まった数名のメカニックとともに、「シェルビー・アメリカン」を設立。
そこには、「世界一速いスポーツカーを作る」というシェルビーの思いに応え、凄腕のメカニックが続々と集まりました。
軽い車体にフォードV8!シェルビー・コブラ誕生
シェルビー・アメリカンを設立して間もなく、シェルビーはイギリスのACカーズがエンジン供給元を失い、危機的状況であることを聞きつけました。
ACカーズは軽量・高性能なシャシーを売りにしており、当時のル・マンでも活躍を見せていたメーカーです。
そこでシェルビーは、搭載するエンジンを手配することを条件に、ACカーズとシャシー提供の契約を結ぶことに成功。
彼が思い描いたエンジンはもちろん、アメリカンV8でした。
シェルビーは、生産能力の高さからフォードが理想的だと考え、早速交渉を試みます。
フォードは当時アメリカ車で最速だったシボレー・コルベットに勝てるクルマを持っておらず、レースには負け続けていました。
そこでシェルビーらは、フォードの副社長リー・アイアコッカに「エンジンさえ用意してくれれば、マスタングを超えるクルマを作れる」と直談判。
この時、交渉のために与えられた時間は、わずか10分程度だったと言われています。
するとシェルビーの情熱に負け、アイアコッカはこう言い放ったそうです。
「その男を追い出せ。金とエンジンを渡してな。お手並み拝見だ」
フォードからエンジンを受け取ったシェルビーらは、ACカーズ製の強化版シャシーにこれを搭載。
そのマシンは「コブラ」と名付けられ、テスト段階から高いパフォーマンスを発揮します。
これを受けてフォードとの本契約も成立し、コブラの量産が決定。
そしてコブラVSコルベットの初対決となった、カリフォルニア州・リバーサイドで行われたレースにて、大差で勝利を収め、全米中にシェルビー・コブラの速さを見せつけたのです。
この勝利により、フォードから一目置かれるようになったシェルビー・アメリカンは、”フォード”ブランドの一翼を担う存在として、その存在感を増していきました。
デイトナ・コブラで製造者としてルマンを制覇
速いクルマが出来たなら、次に狙うはル・マン24時間です。
1963年、シェルビーはコンストラクターとしてのル・マン参戦へ足を踏み出します。
まずはプライベートチームからテスト参戦を行ったところ、空気抵抗の大きいコブラのボディ形状が仇となり、最高速が伸びないという問題に直面。
そこでシェルビーは翌年に向けて、クローズドボディの新型マシンの開発を決意します。
そして、初のデザインスケッチから90日後にはシェイクダウンが行われたと言われる「デイトナ・コブラ」は、テスト時点で従来のどのマシンより3.5秒も速く、ポテンシャルは恐るべきものでした。
そして迎えた1964年のル・マン24時間、シェルビーのマシンはGTクラスのフェラーリに大差をつけて、見事クラス優勝を果たすのです。
さらに、総合でも4位と大健闘し、シェルビーには「フェラーリに勝った男」として熱い視線が注がれるようになりました。
一方、この年から打倒フェラーリを掲げ、ル・マンに参戦したフォード勢は、スタートから11時間までの間にあえなく全滅。
小さなファクトリーチームに過ぎないシェルビー・アメリカンの成功が、余計に際立つ結果となったのです。
フォードに総合優勝を!シェルビーの新たなる戦い
1965年のル・マンに向けて、フォード率いるヘンリー・フォード2世は、背水の陣を迫られていました。
巨費を投じ、ヨーロッパに新会社まで立ち上げたにも関わらず、前年のル・マンでは散々な結果に終わっていたのです。
そこで彼は、はるかに小さな規模でクラス優勝を成し遂げたキャロル・シェルビーに、社運をかけたフォード・GT40を託す決断をします。
そしてカリフォルニア・ベニスビーチにあるガレージに運ばれたフォードGT40は、優秀なクルーたちの手によりブレーキ、サスペンション、そしてエンジンまでもが作り替えられました。
完成したGT40 MKⅡは、走るたびに速さを増し、シェルビーらメンバーは大きな手応えを感じます。
そして迎えた1965年シーズン。
シェルビー・アメリカンが改良したGT40はデイトナ、セブリングで2連勝を達成し、そのノウハウと技術力を証明してみせました。
しかし万全で迎えたル・マンの舞台で、彼らを再び悪夢が襲います。
なんとフォード勢はこの年のル・マンでも、トラブルにより全車リタイアを喫してしまうのです。
その結果、優勝を使命として抜擢されたシェルビーには、より大きなプレッシャーがかかることに。
ヘンリー・フォードからも、翌年のル・マンで勝てなければ、フォードを解雇することを示唆されてしまうのです。
勝てなければクビ!1966年、運命のルマン24時間
1966年シーズン、フォードは新たにアラン・マン・レーシングとホルマン&ムーディーにもシェルビー・アメリカンと同じワークスチーム運営の役割を与え、総勢8台という盤石の体制で臨むことになります。
シェルビーとしてはライバルの増加は歓迎できないものでしたが、前年のリタイアの原因と言われた7.0リッター “427”エンジンも熟成が進み、今度こそ盤石の体制を整えました。
そして迎えた決戦では、前哨戦となるデイトナ24時間、セブリング12時間を完全勝利で飾っていたフォードにもはや死角はなく、圧倒的速さを見せつけます。
シェルビー・アメリカンは3台のフォードGT40MKⅡを持ち込みましが、1台がヘッドガスケットのトラブルでリタイア。
しかしケン・マイルズ/デニー・ハルム組1号車は、3周以上のマージンを築き、トップを独走。
ブルース・マクラーレン/クリス・エーモン組2号車がこれに続きます。
一方でフェラーリ勢はそのペースについていくことが出来ず、トラブルやアクシデントにより全滅。
最後はフォードの意向により「僅差のゴールを」というチームオーダーが入り、その混乱でマイルズが2位に後退。
結果マクラーレン組が首位という結果になりますが、見事シェルビーチームの2台が1、2フィニッシュを達成。
3位にもホルマン&ムーディーのGT40が入賞し、フォードは表彰台を独占しました。
こうしてキャロルシェルビー、そしてフォード長年の悲願は、完璧な形で果たされたのです。
まとめ
キャロル・シェルビーのキャリア、いかがでしたか?
レーサー、メカニック、経営者、すべてにおいて一流。
彼はモータースポーツの歴史上、まさに唯一無二の存在だったと言えるでしょう。
遅咲きなキャリア、そして持病を抱えながらも、レースで勝つことへの情熱が、彼に力を与え続けていたのかもしれません。
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