1990年代、ロードレース世界選手権(WGP)は、2ストロークエンジンのマシン全盛期。この頃は、全日本ロードレース選手権からステップアップした多くの日本人ライダーがWGPに参戦し、日本中のバイクファン、モータースポーツファンが熱狂していました。今回は、そんなWGPで日本人が駆ったマシンを4台ご紹介します。

 

©鈴鹿サーキット

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ロードレース世界選手権(WGP)とは

 

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WGPとは、ロードレース世界選手権(FIM Road Racing World Championship Grand Prix)の略称で、World Grand Prixの頭文字を取ってWGPと呼ばれています。

2002年に、最上位クラスであった500ccクラスがMotoGPクラスと改称したことを機にレース自体も「MotoGP™」という名称へ変更。

市販のバイクではない、専用のレーシングマシンで争われるこのレースは、2輪における世界最高峰の位置に君臨しており、世界中のライダーがここを夢見て切磋琢磨しています。

 

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WGPが始まったのは今からおよそ70年前の1949年。

1904年に発足され、世界の2輪レースを統括していたFCIMが、FIM(国際モーターサイクリズム連盟)へ変わったこの年にロードレース世界選手権が開催されます。

この当時は排気量ごとに4つのクラスを設け、500cc、350cc、250cc、125ccのマシンで争われていました。

その後、幾度かレギュレーションが変わり、350ccが廃止されたり、50ccや80ccのクラスも設立されるなどしながら、現在はMotoGPクラス(1000cc4サイクル)、Moto2クラス(直列4気筒600cc4サイクル)、Moto3クラス(単気筒250cc4サイクル)という3つのクラスで開催されています。

 

©鈴鹿サーキット

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2輪におけるF1のようなレースであるMotoGP™ですが、大きな違いは日本の2輪4大メーカーであるホンダ・ヤマハ・カワサキ・スズキが参加しているということ。(※カワサキのマシンは2010年以降参戦していません。)

日本のバイクが世界のシェアの5割を獲得しているということもありますが、国内の各メーカーが率先してトップカテゴリのモータースポーツへ参戦している姿は、世界中のレースを見てもかなり珍しい状況。

だからこそ、日本でも常に安定して高い人気をキープし続けているのです。

 

そんなMotoGPの前身であるWGPが、2ストロークエンジンから4ストロークエンジンへ移り変わろうとしていた1990年代。

ワイン・ガードナー、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツ、エディ・ローソンなど、4強と呼ばれた人気ライダーがいたことや、日本人のライダーも数多く参戦していたことから、WGPは絶大な人気を誇っていました。

今回ご紹介するのは、そんな熱狂的な時代に活躍した日本人ライダーのマシンたち。

2ストロークサウンドを響かせて、目の前を駆け抜けた名車を4台ご紹介します。

 

1993 ホンダNSR250

 

©鈴鹿サーキット

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まず最初はホンダワークスから参戦していたロスマンズカラーのNSR250。

ライダーは、1992年の全日本ロードレース選手権の鈴鹿にて、”クールデビル”こと原田哲也選手とほぼ同着でフィニッシュし、写真判定でもどちらが勝者か確認できず、史上初の同着勝利を獲得した岡田忠之選手です。

1993年からにWGPのGP250クラスにエントリーしたこのマシンは、250ccながら90馬力以上を叩き出していたと言われています。

市販のNSR250が40馬力ということを考えると、恐ろしいスペックであることは間違いないでしょう。

ちなみに、このマシンのリアスイングアームはプロアーム(片持ちのスイングアーム)で、これは市販のNSR250(MC28)にも採用されていますが、片持ちの向きが逆という特徴があります。

この年の最高位は第8戦の2位表彰台。シリーズランキングは8位で終えています。

 

1993 ヤマハTZ250M

 

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岡田選手のNSRと同じく、1993年のWGPで活躍したヤマハTZ250M。ライダーは先ほど軽く触れた”クールデビル”こと原田哲也選手です。

このマシンから念願のWGPフル参戦を開始した原田選手は、開幕戦から優勝。第2戦は2位になるも、第3戦、第4戦と連勝。

その後も安定して入賞、ポイントを重ね、迎えた最終戦。ランキング2位でレースに臨んだ原田選手がシリーズを獲るために必要な条件は、自身が優勝し、ランキングトップでNSR250を駆るロリス・カピロッシが4位以下であること。

この時、カピロッシのNSRの方がTZよりストレートスピードが速く、原田選手の後に次いでフィニッシュすればいいだけの状況であったことから、前評判は大きくカピロッシのチャンピオン獲得に傾いていました。

しかし、カピロッシはこれを良しとせず、原田選手に勝つために果敢にアタックを決行。両選手ギリギリの状況で3位争いをした結果、カピロッシがオーバーランし順位を大きく後退。

そのまま原田選手は順位をあげ、見事優勝。あまりにもドラマチックにワールドチャンピオンを獲得した瞬間でした。

今回のマシン、ヤマハTZ250Mで戦ったこのレースは、今もモータースポーツファンの間で語り継がれる、名レースのひとつです。

 

1999 ホンダNSR250

 

©鈴鹿サーキット

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90年代ラストのこのマシンは、シェル・アドバンス・ホンダから出走した宇川徹選手のマシン。

宇川選手は1996年からWGPの250ccクラスへフル参戦を開始。それまで表彰台はあるも優勝はない状態で迎えた4年目の1999年。

開幕戦から3戦連続で2位を獲得し、第4戦のフランスGPでは念願のWGP初優勝を獲得!

それ以降も安定してポイントを獲得し、第12戦でも優勝を獲得。

この年のGP250クラスには、2016年現在もMotoGP™で活躍している生きる伝説、ヴァレンティーノ・ロッシ選手がアプリリアから参戦しており、16戦中9勝。2位が2回、3位が1回という恐ろしい成績をシリーズを制覇。

宇川選手はシリーズランキング2位でシーズンを終えています。

 

2001 ホンダNSR250

 

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最後のマシンは、90年代をちょっとだけ過ぎた2001年に登場した、チーム「テレフォニカ・モビスター・ホンダ・グレシーニ」のNSR250。

ホンダワークスとして最後のNSR250であるこのマシンを駆ったのは、故・加藤大治郎選手。

WGP自体は1996年から日本GPにスポット参戦しており、97年、98年と優勝するなど世界に名を轟かせつつも、フル参戦スタートは2000年から。

シリーズ4勝するもランキング3位でシーズンを終え、迎えた参戦2年目は天才的なライディングセンスを披露。

全16戦中11勝、2位、3位ともに1回ずつという、圧倒的”すぎる”成績でシーズンを制覇するという離れ業をみせたのです。

その時の相棒であったマシンがこのNSR250です。

その後、MotoGPクラスにステップアップしてから2年目の2003年。加藤選手はクラッシュによりこの世を去ります。

世界中のライダーが憧れ、愛した偉大な選手であることから、ゼッケン74という数字は彼の事故死以後、永久欠番に。

今も、彼と親交の深かった選手や、マシンやツナギのどこかに74という数字を着けてレースに臨んでいます。

 

まとめ

 

WGP名車紹介、いかがだったでしょうか?

日本人が数多く参戦し、熱狂したあの時代を象徴する4台のマシン。

2ストローク特有の、パワーバンドに入って音が変わるあの瞬間を、耳で、目で、身体で感じたら、もうあなたの心は鷲掴みされているかもしれません。

 

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