トヨタ初の量産スポーツカーとして1965年に発売し、トヨタ スポーツ800を略した『ヨタハチ』の名で親しまれた小さな車は、スポーツカーとしての『ハイパワー』か『軽さ』どちらが正義かという議論の始まりのモデルでもありました。そんな、DOHCエンジンを搭載するハイパワーなホンダスポーツと多くのレースで名勝負を演じ、軽くて低燃費なため耐久レースにめっぽう強かったヨタハチは、後の環境も重視したスポーツカーを先取りした存在とも言えるのです。
掲載日:2019/02/06
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パブリカとカローラ、2台の大衆車の間隙を縫って開発されたスポーツカー
1961年6月、トヨタは同社初の国民車的小型大衆車、初代パブリカ(現在のヴィッツのご先祖)を発売し、クラウンやコロナに続く第3の量販乗用車と、その新たな販売ディーラー網であるトヨタパブリカ店(現在のトヨタカローラ店)を立ち上げます。
そして、パブリカとコロナの中間を埋め、初代日産 サニーと共に日本の大衆車のスタンダード的存在となる初代カローラの開発に取り掛かりますが、カローラの発売は1966年11月であり、初代パブリカの開発終了とカローラの開発開始には若干の間がありました。
その期間に、トヨタ傘下で企画・開発・生産まで手広く関わっていた関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)からスポーツカーの企画が舞い込み、パブリカやカローラの開発主査・長谷川 龍雄を中心とする開発チームを巻き込む形で試作車が作られます。
パブリカをベースに航空機のような空気抵抗を極限した流線形デザインと、戦闘機のような後方スライドキャノピーを持つ試作スポーツカー、パブリカスポーツはこうして誕生しました。
そんな、あくまで『手の空いた開発チームによる自由研究』的な試作車であるパブリカスポーツでしたが、1962年の第9回全日本自動車ショー(現・東京モーターショー)に出展したところ思わぬ好評を得たことと、販売サイドからの要望もあったため急きょ市販する事が決まります。
そして市販車としてより現実的な装備を持ち、同じショーで発表されたホンダのスポーツカー(S500をはじめとするSシリーズ)へ対抗する意味も込め、スポーツカーとして必要な性能向上が図られた上で1965年3月にトヨタ スポーツ800として発売されました。
しかし、スポーツカーとはいえあくまで日本国内でのみ通用するレベルの車として開発されたこともあり、輸出は行われなかったため生産台数は3,131台に留まりますが、1969年春にトヨタカローラ店へ改称される頃までのトヨタパブリカ店で販売され続けました。
小型軽量と空気抵抗低減が大きな武器
トヨタ スポーツ800、通称”ヨタハチ”は前年に発売されたホンダ”S”の2番手、S600とはかなり対照的なスポーツカーでした。
基本デザインはパブリカスポーツで既に出来上がっており、後方スライドキャノピーを一般的なヒンジドアとタルガトップ・ルーフとした上で、より徹底して丸みを帯び空気抵抗の少ないデザインに変更。
大衆向けファミリーカーを販売していなかったホンダとは異なり、あくまで大衆車パブリカのプラットフォームに組み合わせたモノコックボディという、後のスペシャリティカーの先駆けとも言える構造でしたが、それが逆に功を呈してかなり軽量に収まりました。
それもS600の695kg(オープンボディ)に対して580kgと115kgも軽く、空気抵抗も少ないので、コーナーをヒラヒラ舞うような走りがそれだけで期待できるという事!
ただし、パブリカから転用される予定だったU型空冷水平対向2気筒OHV697ccエンジンは、前後方向にコンパクトで低重心ゆえ運動性能向上にも一役買えるものの、パブリカのままの28馬力ではあまりに非力だったのです。
そこで排気量を790ccに拡大してツインキャブ化、45馬力にパワーアップした2U型が搭載される事に。
それにより、高出力な57馬力のDOHCエンジンを積むS600の145km/hを上回る、最高速度155km/hを発揮しました。
とはいえ、空冷フラットツインのパタパタという牧歌的なエンジン音やパブリカと変わらぬサスペンション(フロント:ダブルウィッシュボーン、リア:リーフリジッド)、そして4輪ドラムブレーキはスポーツカーらしからぬところ。
しかし、ただひたすら軽くて空気抵抗の少ないヨタハチにはさしたるハンデとはならず、むしろ燃費が良くタイヤも減りにくいので日常的なランニングコストの面でも有利など、ホンダSには無い良さがありました。
伝説の船橋CCCレースをはじめ、レースで大活躍したヨタハチ
ヨタハチの生まれた時代は1963年に始まった日本グランプリをはじめ、日本でレース熱が過熱していたころだったので、もちろんヨタハチも数多くのレースに投入されました。
サーキットでもパタパタとのどかな音を立てるフラットツインは、カン高いエキゾーストノートを響かせるホンダ・ツインカムサウンドとは全く対照的ではありましたが、走るステージに変わりは無く、両者は多くのレースで激闘を繰り広げます。
とはいえ、ホンダのSはその構造上、ラダーフレームに軽量空力ボディを載せ替えることも可能で(これはダイハツ コンパーノも共通)、その上でDOHCエンジンをチューニングすればかなり手ごわい存在。
そこでヨタハチが得意としたのが耐久レースで、チューニングにより多少のパワーアップを受けたとはいえ低燃費、かつ軽量でタイヤ交換も不要なことが幸いし、第1回鈴鹿500kmレース(1966年1月)で1-2フィニッシュを決めるなど、大排気量車を差し置き優勝することも珍しくありませんでした。
さらにヨタハチを語る上で欠かせないのが、1965年7月18日に開催された船橋CCCこと全日本自動車クラブ選手権レース大会GT-Iクラスで、ゼッケン20のヨタハチで出場していた伝説のドライバー、浮谷 東次郎による大逆転劇がありました。
このレース序盤で浮谷のヨタハチは接触事故に巻き込まれて右フロントフェンダーが大きくへこみ、フロントタイヤと接触して走行継続困難になりますが、どうにかピットに帰ってくると、フェンダーをメカニックに引っ張り戻してもらった上で猛追劇を開始します。
1周2.4kmの船橋サーキットをわずか30周のレース、耐久レースと異なりいずれチャンスを見て…などと呑気なことは言っていられません。
最下位に落ちた浮谷は次々と先行車をゴボウ抜きしてあっという間に上位に浮上。
2位の田中 健二郎(410ブルーバードSS)などは、その勢いと勇猛な走りに感嘆して道を譲ってしまいます。
そしてついにトップを走っていた盟友にしてライバル、生沢 徹(ホンダ S600)を射程に収めるとパッシングでプレッシャーを与えて抜き去り、『ピットイン最下位からの大逆転優勝』という伝説を作りました。
この伝説はトヨタ スポーツ800と共に、浮谷 東次郎(1965年8月21日、鈴鹿サーキットで練習走行中の事故でこの世を去る)の名を日本のレース界に永遠に刻み付け、ゼッケン20はヨタハチにとって特別な番号となったのです。
主要スペックと中古車相場
トヨタ UP15 スポーツ800 1965年式
全長×全幅×全高(mm):3,585×1,465×1,175
ホイールベース(mm):2,000
車両重量(kg):580
エンジン仕様・型式:2U 空冷水平対向2気筒OHV4バルブ
総排気量(cc):790
最高出力:45ps/5,400rpm
最大トルク:6.8kgm/3,800rpm
トランスミッション:4MT
駆動方式:FR
中古車相場:398万~469.8万円
まとめ
ヨタハチことトヨタ スポーツ800は、現在の視点で見れば決してハイスペックな車ではありません。
むしろ、パブリカをベースにスポーツカーボディとちょっとパワーアップしたエンジンを載せ、サスペンションやブレーキはそのままなところを見ると、後に大衆車をベースとして流行ったスペシャリティクーペ的なものを感じます。
「スポーツカーならばパワーが無ければ!」と考える層にとっては物足りなさを感じるかもしれませんが、「パワーは無くてもいいから軽くてヒラヒラ走る車がいい!」と考える層にとっては、ヨタハチこそ理想のスポーツカー!
ここまで徹底した大衆車ベースのスポーツカーは今では存在せず、似たコンセプトの車はありますが、やや本格的、あるいはちょっと惜しい!というところに留まります。
東京モーターショー2015で初登場したコンセプトカー、トヨタ S-FRなどかなりイイ線を行っていましたが、開発が継続されているという続報も無いので、あまり期待はできません。
このヨタハチや、あるいはKP61スターレットのような『パワー以外で勝負』という車を求めている人は、結構いるのではないでしょうか?
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