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突然の悲劇・”ディーノ”の死
フェラーリの次世代を担うアレフレード・フェラーリは、父が望んだ”以上”の才能を以て、その先見の明とともにフェラーリの未来を描き始めていました。
しかし1956年、悲劇は訪れてしまいます。予てから冒されていた筋ジストロフィーの症状が悪化し、わずか24歳という若さでアルフレードはこの世を去ってしまうのです。
自身と全く違うビジョンを持ち、未来のフェラーリを背負うはずだった最愛の息子の死を受け、エンツォ・フェラーリは悲しみに暮れます。
それ以降公の場にも姿を殆ど現さなくなり、エンツォの人生はある種大きく屈折することになってしまうのです。
一方で、程なくしてアルフレードの魂が宿ったその「V6エンジン」はレースの舞台に姿を現します。
1957年、F2用のエンジンとして1.5リッターV6エンジン「Tipo134」が実戦デビューするのです。
このエンジンは当初からディーノ・ユニットとも呼ばれており、更に翌年にはF1のレギュレーション変更に伴いこれをベースとした2.5リッターV6ユニットが「Tipo246 F1」に搭載され、1958年のF1においてマイク・ホーソーンのドライブでワールドチャンピオンを獲得。
その後、1961年には1.5リッターに排気量が制限され、これに合わせて開発されたV6 1.5リッターのTipo178を搭載した「Tipo156F1」をデビューさせます。
このマシンはフェラーリ史上初のミドシップF1マシンであり、コンパクトなV6ユニットが功を奏しライバルを圧倒。
デビューイヤーの1961年にフェラーリ初のコンストラクターズタイトル獲得します。
また、同じフェラーリのエースでチャンピオンを争ったウォルフガング・フォン・トリップスの事故死という悲劇こそあったものの、フィル・ヒルがドライバーズチャンピオンの座に就きダブルタイトルの栄冠を手にしています。
F1で培われたこのV6ディーノ・ユニットはスポーツ・プロトタイプマシンにも採用され、1965年の「ディーノ206 SP」に始まり、1966年の「ディーノ206 S」へと発展。
特に206Sはタルガ・フローリオでクラス優勝を勝ち取るなど活躍を見せるとともに、ポルシェ906とのライバル対決で大いに沸かせました。
名車330P4譲りの美しいクーペボディが実に印象的なマシンです。
このように、後にリトル・フェラーリと呼ばれることとなるV6フェラーリ「ディーノ」の系譜は、レースの世界で栄光を掴んだ名機をそのルーツに持つのです。
「V12以外はフェラーリに非ず」
一方でエンツォ・フェラーリは、F1やスポーツカーレースでのV6ユニットの活躍を経ても尚、ロードカーについては「V12以外のロードゴーイング・フェラーリはフェラーリとは呼ばない」という考えを頑として曲げてはいませんでした。
そもそもエンツォは当初から「一般ユーザー向けの」市販車を作ることに殆ど関心がなく、経営を安定させる為に旧型のレースカーをデチューンしてストラダーレ(ストリート仕様)として売り出したり、ホモロゲーション取得の為に必要に迫られてロードカーを作ったりと、要するに「誰もが乗りやすいクルマ」など作る気は毛頭無かった…とも言えます。
しかし、そんな高価な”プランシング・ホース(跳ね回る馬)”を愛する偏執狂的セレブ達がいたのも事実であり、彼らが愛してくれたことでフェラーリのブランディングが確立していたのもまた事実でした。
しかし競合が増え自動車市場が拡大していくにつれ、状況は変化していくことになります。
1960年代半ば、ランボルギーニ・ミウラなどミドシップレイアウトの潮流がロードカーの世界にも到来し、やがて高性能車=ミドシップという流れが確立されていきます。
この頃には、既に還暦を迎えたエンツォの経営手腕はかつての勢いを失い、時に時代遅れと揶揄されるようになっていきます。身内の裏切りなどにも逢い、フェラーリは経営的な危機を迎えていました。
フォードからの買収話が一時持ち上がるもエンツォはこれを一蹴し、結果的には1969年、イタリアにおける最大手・フィアットの傘下となることで「近代的自動車メーカー」として再出発を図ることになります。
Dino Berlinetta Speciale(1965)
市販車としての「ディーノ」誕生は、フェラーリがフィアットとのパートナーシップを公にする4年前、1965年にピニンファリーナが提示した1台のコンセプト・カーがきっかけとなります。
1952年よりフェラーリの車体製作を請け負ってきたカロッツェリア「ピニンファリーナ」が、モータースポーツで培われた先進的なV6パッケージングを市販車にフィードバックしたものとして、フェラーリに逆提案したのがこのマシンです。
新時代のトレンドであるミドシップ・レイアウトに加え、コンパクトに纏め上げられたそのスタイルに注目が集まりました。
しかし、息子の残したテクノロジーを受け継いだこのマシンですら、エンツォは「V12ではなければ…」という考えを曲げはしませんでした。
FIAT Dino (1966)
F2のホモロゲーション取得の為に、V6エンジンを12ヶ月間に500機製造する必要に迫られたフェラーリ。
当時の生産能力では対応出来ないこの数字をクリアする為に、フィアットの市販車への搭載をフィアットに製造を委託することになり。そこで生産されたエンジンは「フィアット・ディーノ」と呼ばれる流麗なフロントエンジン・マシンに搭載され、市販が開始されたのです。
まずは2.0リッターエンジン搭載の「2000スパイダー」が世に送り出され、ピニンファリーナデザインによる流麗なそのデザインで人気を博しました。その後、ベルトーネ在籍時のジョルジェット・ジウジアーロ作と言われる2+2クーペもラインナップされました。
Dino 206 GT(1967)
フィアット・ディーノの市販化を好機と捉え、ピニンファリーナは前年のコンセプト・カーにブラッシュアップを施し、「DINO GT コンセプチアーレ」として本家・フェラーリに再提案。
そのデザインとパッケージングの完成度により、遂にエンツォから開発のGOサインが発せられるのです。
そうして遂に誕生する事になったのがこの「Dino 206 GT」です。
フェラーリとしては初めて一般ユーザー向けのマーケティング(直接のライバルはポルシェ911)が用いられたと言えるこのマシンは、当時技術が確立されていなかった「エンジン横置き」という制約が同時に与えられていました。
レースカーのような縦置きミドシップレイアウトが運動性能において有利である事は明白だったといえ、RRで車内空間の広いポルシェに対抗しうる実用性を備えるには、トランクスペースの確保が必要だったのです。
とはいえ、より重心位置に近い場所に最大の重量物=エンジンを収められるメリットもあり、これを生かした「ハンドリング・マシン」を仕上げるべく、ダイレクトな操作性が得られるラック&ピニオン式のステアリング機構がフェラーリで初めて採用されています。
そしてエンジンはアルミブロックのTipo236Bユニットを搭載し、180ps/7400rpmというパフォーマンスを発揮。とはいえこのマシンは例のF2規定のホモロゲ取得用として市販化されたに過ぎず、100台程度が生産されるに留まりました。
また、尚も「フェラーリ・ブランドとの差別化」として、あくまで「ディーノ」という独立したブランドを作り、ロゴマークも一切フェラーリのものは用いられていません。
Dino 246 GT(1969)
F2参戦用のホモロゲーション目標を達成したフェラーリは、ディーノ208GTに対しフィアットのアドバイスで「コストダウンとパフォーマンスアップ」を同時に行うことを決定します。
2.4リッターV6ユニット、Tipo135CS搭載の「ディーノ246GT」を市場投入するのです。
このエンジンはアルミブロックを鋳鉄製へと敢えて変更する事で、コストダウンをはかると同時にシリンダーライナーが不要となる為、基本設計を変えずにボアアップが可能でした。
その戦略的背景には、やはり時を同じくしてパワーアップを遂げたポルシェ911の存在がありました。
エンジンの変更と並行してホイールベースも60ミリ長くなり、直進安定性が向上。
全長もトータルで90ミリほど長くなり、伸びやかなスタイリングへと微妙な変化を遂げています。
のちにタルガトップ仕様の246GTSがラインナップに加わり、結果的には延べ4000台を販売する大ヒットを記録するのです。
この成功はエンツォ自身も予期しないものであったと同時に、20年近く前にアルフレード・フェラーリが予見した未来が訪れたことを意味しました。
彼が残りの人生を賭して捧げたV6″ディーノ・ユニット”は、フェラーリを救うばかりか、現代へと続く新たなミドシップ・フェラーリの系譜を誕生させたといって過言では無いのです。
Dino 308/208 GT4(1973)
結果的に大ヒットを記録したディーノ246GTの後継車として、「ディーノブランド」を引き継いだマシンです。
この車はいわゆる現代まで続くフェラーリ・V8シリーズの初代となるクルマでしたが、特異な点としては競合を意識して実用的な2+2のシートレイアウトを持っている点と、ピニンファリーナではなくベルトーネがデザインしている点でしょう。
在籍時のマルチェロ・ガンディーニによる鋭角なボディ・ラインは、4人乗りMRというデザイン的ハードルの高いマシンに独特な佇まいを与えています。
ちなみにこのマシンがディーノと呼ばれたのは1976年までであり、それ以降はフェラーリブランドを与えられています。
この間の1975年、このディーノ308GT4をベースとした2シータークーペ「308GTB」がデビューしており、つまりエンツォ・フェラーリが初めて「カバリーノ・ランパンテ」を与えたV8・MRマシンは、この308ということになります。
こうして脈々と受け継がれることとなるV8・フェラーリの系譜は、その後40年を経た今でも続いているのです。
まとめ
ここまで振り返ってみて、病床に伏せても尚V6ディーノ・ユニットに思いを巡らせたアレフレード”ディーノ”フェラーリの情熱が、彼が夭折した1956年以降により輝きを増して生き続けているという事実に気付かされます。
創始者であるエンツォ・フェラーリは1989年に90歳でこの世を去った後、その創設60周年モデルである「Enzo Ferrari」にその名が刻まれ、彼の名は自らが生み出したV12フェラーリの血統そのものに名を残す事となります。
ならば、フェラーリの繁栄に大きな未来を授けたもう一人の功労者であるディーノ・フェラーリの名もまた、生き続けなければなりません。
そして遂に、その復活が囁かれ始めました。
フィアット・クライスラーグループCEOが、「Dino」が既に開発過程にある事を認めているのです。
情報筋によるとデビューは2019年、3リッターV6ツインターボエンジンを搭載すると言われていますが、真相やいかに。
フェラーリが「ポルシェ・ケイマン」のマーケットにおける成功を指を咥えて見ているはずもなく、エントリーモデルとしての「V6フェラーリ」に恐るべき需要がある事は充分に把握していることでしょう。
奇しくも初代・ディーノ 206/246GTが対峙した、ポルシェとの戦いが再び…という構図になりそうですが、「サーキット」でも「マーケット」でも負けを良しとしない双方の熱い戦いに、スポーツカー・ファンはただただ胸を踊らせるばかり…といったところでしょうか。
新生・ディーノの続報に、大いに期待したいところです。
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