メルセデス・ベンツ初の小型車として登場した190E。現在のCクラスの元となった車が産まれた背景とは?そしてどのようなモデルライフを送ったのでしょうか?
ターゲットは「3」~190の登場
1970年代、ダイムラー・ベンツ社(注:当時の正式社名)はW116型という形式を持つSクラスと称される大型セダン、
後にミディアムクラスと呼ばれるようになる、Sクラスより小型なW123という形式を持つセダン・クーペ・ワゴン、
この2車種のラインナップで乗用車市場を戦っていました。
しかし当時の重要な市場であったアメリカ市場では、1978年モデル以降を対象に自動車メーカーが全車種の平均燃費を算出し、基準値を超えた場合制裁金が課される制度「CAFE」が開始され、比較的大きな排気量の車種しか持たないダイムラー・ベンツにとっては大きなハンデとなったのです。
しかも1975年にデビューしたBMWの3シリーズ(E21型)がヒットしていたので、ダイムラー・ベンツとしては指をくわえて見ている訳には行きませんでした。
そこでBMWに対抗すべく更なるコンパクトカーを開発し、1982年にW201型という形式を持つ190が登場。
ダイムラー・ベンツは車名を命名する時の基本は排気量を示す3桁の数字を付し、後に続くアルファベットはボディ形状を表していました。
しかし190は、200より小さいという意味で190と名付けられ、基本排気量である2リッターより大きい場合は「190E2.3」や「190E2.6」のように後に排気量を示す数字を付ける手法を採り「新しいコンパクト・メルセデス」を印象付けようとしたのでした。
余談ですが、会社名はダイムラー・ベンツ、ブランド名はメルセデス・ベンツとなっており、一見すると紛らわしい違いとなっています。
その理由は1899年当時、ベンツと合併する以前、ダイムラーのディーラーを経営していたオーストリア=ハンガリー帝国の領事であり、ユダヤ系ドイツ人の富豪であるエミール・イェリネックが、硬い響きの「ダイムラー」を嫌い、その代わりに娘の名前「メルセデス」を冠したところ、当時流行していたスペイン風の響きもあって、「メルセデス」ブランドは非常に有名になり、ダイムラーが車名として1902年に「メルセデス」を商標登録したのが由来となっています。
その後1926年にダイムラー社とベンツ社が合併し、「ダイムラー・ベンツ」となり、販売ブランドとして「メルセデス・ベンツ」となりました。
「最善か無か」の小型化
そういった背景で誕生したW201ですが、その造りは決して安っぽい物ではありませんでした。
有名なキャッチコピー「最善か、無か」を地で行っていた頃のダイムラー・ベンツなので、なりは小さくとも本格的な造りで安全性は高く、シートもヤシの繊維とS型ばねを使った伝統的な構造となっており、快適性と姿勢の保持の最適化を図ったものを採用。
更に足回りは初採用となるマクファーソン型ストラットをフロントに、リアには新開発のマルチリンクサスペンションを採用し。
高速時のロードホールディング性を向上させたのでした。
ボディスタイリングは社内デザインチーフのブルーノ・サッコが担当し、ロータリーエンジン実験車C111のデータがフィードバックされたボディは、エアロパーツ無しの状態でCD値0.33を記録するなど、新世代のメルセデス・ベンツを象徴する1台となったのです。
デビュー当初のバリエーションはキャブレター仕様の直列4気筒SOHCエンジンの190と、電子制御インジェクション仕様直列4気筒SOHCエンジンの190Eの2本立てでしたが、この直4ユニットをベースに英国のエンジンメーカー、コスワースがシリンダーヘッドをDOHC化したプロトタイプが、1983年にイタリアのナルド高速周回路にて速度記録に挑戦し、平均速度247km/hを記録するなど9部門のFIA公認記録を樹立。
後にその車が1985年に190E2.3-16としてデビューするのでした。
1984年にようやく増産体制に入り、アメリカと日本への輸出を開始すると、「5ナンバーのベンツ」というところが受け、特に1987年以降、バブル景気に向かう日本では大ヒットし、BMWの3シリーズ(E30型)が「六本木カローラ」とあだ名されたのに対し「銀座サニー」と呼ばれるほど溢れかえったのでした。
そして1985年にはディーゼル仕様の190D2.5が190E2.3-16と共に日本仕様にも導入。
1987年にはW201型唯一の直列6気筒SOHCエンジン搭載車、190E2.6を追加しバリエーションを広げつつ、1988年には初の大掛かりなマイナーチェンジが敢行されました。
通称「サッコ・プレート」と呼ばれるボディサイド下部のカバーの装着と前後バンパーの形状変更により、更なる空力特性の向上が図られました。
また、2.3-16は排気量をアップし、2.5リッター仕様の2.5-16となり戦闘力を向上させましたが、日本仕様では5速マニュアル仕様がラインナップから外れ、4速オートマチック仕様のみとなったのです。
そうしてW201型は世界中でヒットし、デビューから足掛け12年というロングライフを経て、1993年に生産終了。
W202型にモデルチェンジし、新たに「Cクラス」と呼ばれるシリーズ名に変わったのでした。
30年ぶりの復帰
ダイムラー・ベンツは1955年、ル・マンに出場しトップ争いを繰りひろげていましたが、ピットインの為、急制動したジャガーDタイプを避けようとしてスピンしたオースチン・ヒーレー100Sの後部にメルセデス・ベンツ300SLRが乗り上げ、宙を舞い、観客席に飛び込み死者84名、120名以上が重軽傷を負うという凄惨な事故の後、レース途中でリタイヤし、F1からの撤退を決定。
当初F1のみ撤退予定だったのが、1955年末になり全レースからの撤退を表明しました。
以降モータースポーツには、ワークスとしての参戦はありませんでした。
しかし1985年のグループCに、ザウバーへのエンジン供給という形でレースに復帰。
そして当時グループAで争われていたDTM(ドイツツーリングカー選手権)にも参戦すべく登場させたのが190E2.3-16だったのです。
先程も触れたようにM102型直列4気筒SOHC2リッターエンジンをベースに、イギリスのエンジンビルダー、コスワースの手によりDOHC化、2.3リッター化したものを搭載、グループAの公認を得たのでした。
それに対抗するべくBMWは、E30型3シリーズにM1のM88型直列6気筒DOHC3.5リッターエンジンの2気筒分を切り取ったような形のS14型直列4気筒DOHC2.3リッターエンジンを搭載したM3を登場させ、激しいバトルを繰り広げたのでした。
そして、BMWに対抗するべく1988年に2.5リッターとなった2.5-16をベースにしたエボリューションを1989年、更にオーバーフェンダーやハイウイングを装着したエボリューションⅡを1990年に、それぞれ500台ずつ生産しBMWに対抗。
1989年には、同じく2.5リッター化したM3スポーツエボリューションを追加したBMWとの争いは激化し、その後クラス1規定となったDTMに於いても引き続き激しいバトルを繰り広げたのでした。
一方日本では、1985年より開始された全日本ツーリングカー選手権にレイトンハウスから参戦。
ナンバー1ドライバーだった萩原光選手がスポーツランド菅生での練習中にクラッシュし、亡くなられるというアクシデントが勃発。
チームメイトの黒沢元治選手に加え、亡くなった萩原氏の代役には後輩の影山正彦選手を起用しましたが戦績は今一歩でした。
他にも2.3-16を走らせるチームがあったものの、BMWはプライベーターにとってあまり資金を掛けずに戦える車であったことから、M3に乗り換えるエントラントが続出。
結果、190E2.3-16は淘汰され、E30型M3の天下となったのでした。
W201型 メルセデス・ベンツ190E スペック
全長×全幅×全高(mm):4450×1680×1375
ホイルベース(mm):2655
エンジン:M102型直列4気筒SOHC
最高出力:115PS/5100rpm
最大トルク:17.5kgm/3500rpm
トランスミッション:5速マニュアル/4速オートマチック
駆動方式:FR
(以上、’91年式 190Eアンファング)
新車時価格:481万円(190D2.5)~851万円(190E2.5-16)※1991年モデル
中古車相場:49万円~ASK(2017年8月現在)
まとめ
新しい世代のコンパクトカーとしてデビューしたW201型メルセデス・ベンツ 190、当時かなり売れたのと5ナンバーサイズであったことから「小ベンツ」などと少々馬鹿にしたようなあだ名をつけられるほどメジャーな車種でした。
しかし、振り返ってみるとコストを掛けてしっかりした車を造るという信念の元に造られた最後の世代のメルセデスともいえる車です。
機会があれば是非触れてみて、乗ってみてくださいね。
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