2019年8月25日、VWグループの元会長 フェルディナント・ピエヒ氏が82歳で死去しました。フェルディナント・ポルシェ博士の孫にして、60〜70年代のポルシェ、80年代のアウディで技術者として剛腕を振るい、VWグループのトップにまで上り詰めた男。今回はピエヒ氏が手がけた傑作車3選をご紹介しながら、偉大な技術者 ピエヒ氏を追悼したいと思います。
ポルシェ917(1969年)
1937年、自動車一家に生まれたピエヒ氏は、チューリッヒ工科大学を卒業するとポルシェに入社します。
そこでピエヒ氏が手がけたのは、主にレーシングカーでした。
この時期、大々的なレース活動を通じて技術の向上と市販車のPRを盛んに行っていたポルシェは、毎年のように新たなレーシングカーを開発し、様々なレースに参戦。
当時、メイクス選手権を席巻していたのは、大排気量エンジンを積むフォードGT40でした。
しかし1969年、ピエヒ氏はそんな大パワーのフォードに対抗すべく、4.5リッター水平対向12気筒エンジンを開発し、ポルシェ917を完成させたのです。
車体は軽量なアルミ・スペースフレームで、12気筒エンジンを搭載しているにも関わらず、車重はわずか800kgしかありません。
初年度は熟成不足からリタイヤが多く、同じポルシェワークスから出場していた908に勝利を譲る場面が多々見られた917ですが、翌1970年にはル·マン24時間レースで総合優勝を果たします。
これは、ポルシェにとって悲願のル·マン初優勝でした。
翌年もポルシェ917が連続優勝しますが、72年にレギュレーションが変更となり、ポルシェ917はヨーロッパのサーキットから姿を消します。
同時に、ポルシェ一族が会社から撤退することになり、ピエヒ氏もアウディへと移籍しました。
アウディ・クワトロ(1980年)
今でこそ、ドイツが誇る高級車としての地位を確立しているアウディですが、1970年代までは「公務員の車」という異名があったほど、地味な存在でした。
アウディに新たな職場を得たピエヒ氏は「スポーティな高級車」というブランドイメージを植え付けるべく、フルタイム式の4WDシステム「クワトロ」を開発。
1980年にアウディ・クワトロを発表します。
当時、乗用車に4WDシステムを搭載したのは画期的でした。
ピエヒ氏は、ここでも果敢にモータースポーツに挑戦します。
選んだ舞台は、WRC(世界ラリー選手権)でした。
そして1982年、4WDの強力なトラクションを活かして、アウディ・クワトロはマニュファクチャラー部門を制覇します。
当時4WDマシンがWRCを制したのは初めてのことで、これがきっかけとなってアウディは「スポーティな4WD高級車」というブランドイメージを確立。
メルセデスベンツやBMWと並ぶ高級車ブランドとなっていきます。
また、WRCもアウディ・クワトロ以降は4WDマシンが主流となりました。
フォルクスワーゲン EA266(1966年)
このEA266は、ピエヒ氏がポルシェ在籍中に作ったプロトタイプで、VWビートルの後継モデルとして開発された1台たです。
今ではスポーツカーだけにとどまらず、SUVや高級サルーンもラインナップし、規模を拡大しているポルシェですが、1960年代は年間の生産台数が1万台にも満たない小さなメーカーでした。
当時、ポルシェの屋台骨を支えていたのは、VWビートルのロイヤリティでした。
そのVWビートルを設計したのは、ピエヒ氏の祖父、フェルディナント・ポルシェ氏です。
VWとポルシェはビートルが1台売れるごとに、ロイヤリティが支払われる契約を結んでいました。
そしてビートルは世界的な大ヒット車になり、ポルシェには毎月、莫大なロイヤリティが支払われたのです。
その後1966年、VWは陳腐化したビートルの後継モデルを開発することを決断し、この時もやはり、ポルシェに設計を依頼しました。
そして、その開発責任者となったのがピエヒ氏だったのです。
ビートルが革新的でそれまでの市販車を一気に時代遅れとしたように、EA266も革新的で、まず、ミッドシップ方式を採用した点が独創的でした。
エンジンを後部座席の下に搭載し、後輪駆動とすることで、後部座席の下という完全なデッドスペースを活かして、小型車としては異例の広大なキャビンスペースを生みだしたのです。
ボンネットの中はトランクルームとなり、スペースに無駄のない画期的な小型車となりました。
ところが、当時のVW社、社長ハインリヒ・ノルトホフ氏が急逝したことで、EA266の発表前に事態は急転します。
後継社長の座に座ったルドルフ・ライディング氏は専用設計でコストがかかり、おまけにポルシェにロイヤリティを支払わなければならないEA266を即座にキャンセル。
代わりに生まれたのがVWゴルフです。
こうして、EA266は幻に終わり、ピエヒ氏の天才的な設計が陽の目を見ることはありませんでした。
もしもEA266がビートルのようなヒット車になっていたら、世の中の小型車の多くがミッドシップになっていたかもしれません。
ポルシェにはEA266の基本を流用し、911の後継スポーツカーを作る計画があったといいます。
そのため、911も1970〜80年代にはミッドシップ化し、新しい911像を築いていたかもしれません。
そう考えるとEA266の開発中止は、自動車業界としけも残念な出来事です。
まとめ
フェルディナント・ピエヒ氏はとても個性の強い技術者だったといわれています。
確かにピエヒ氏が手がけた車はどれも独特で、他に例がありません。
今は第二のピエヒ氏のような独創的な自動車技術者の出現を期待しながら、偉大なピエヒ氏の冥福を祈りたいとおもいます。
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