日野自動車といえば、いまやいすゞ自動車と並び日本を代表するバス・トラックメーカーですが、実は1970年以前は総合自動車メーカーで、乗用車も生産していました。しかも日本でいち早く乗用車の大量生産を行ったメーカーでもあります。そんな日野自動車の歴史と名車をご紹介します。

©日野自動車

日野自動車の歴史

黎明期

幕末の戦乱の記憶が残る1873年、横浜の馬車道通りに日本初のガス灯がともりました。

当時のガス事業は公営でしたが、「民間の活力を導入して、さらにガス事業を発展させよう」との世論により、1885年に渋沢栄一氏が中心となり「東京瓦斯会社」(現在の東京ガス)が設立されます。

そして東京瓦斯会社のガス機器製造部門が1910年に独立し、現在の日野自動車の源流である「東京瓦斯工業株式会社」が誕生。

1913年には電気機器の製造にも乗り出し、「東京瓦斯電気工業」へと改称しました。

ガス・電気機器から自動車製造へ

自動車の製造に乗り出したのは、1917年のこと。

1914年に勃発した第一次世界大戦用に、大砲の信管を製造していた東京瓦斯電気工業に陸軍が、軍用4トントラック5台の組立てを依頼。

これを受注したことがきっかけでした。

陸軍に依頼されたトラックは、1919年に納車したのですが、一方で1917年には既に輸入トラックの販売も手掛けていた東京瓦斯電気工業は、独自開発したトラックのTGE型も同時期に完成させており、こちらも軍用車両として採用されました。

ちなみにTGE型トラックは、ロシア革命時にシベリア出兵で大活躍し、その品質に自信を深めたそうです。

また、TGE型トラックはトラックベースの仮装車、3軸6輪バス、2軸4輪バス、キャブオーバーエンジン型バスなど、多くの派生車に発展していきました。

昭和恐慌から第二次世界大戦期

1930年ごろに起こった昭和恐慌により、日本の第一次大戦バブル景気は収束し、金融システムの悪化と政府の緊縮財政政策により、日本経済は危機的状況に陥りました。

当時、多くの海外トラックを日本でノックダウン生産していましたが、価格的に国産車では太刀打ちできません。

そこで1931年に東京瓦斯電気工業・石川島自動車製作所・ダット自動車の国産3社は、当時の商工省に効率的な自動車製造のための合併を勧告され、さらに商工省標準形式自動車を共同開発することになります。

さらに同時期に、軍より戦車の製造を依頼され、東京瓦斯電気工業は日野製作所を建設。

年間200~300台規模で、軽装甲車を製造することになるのです。

そして1932年に、石川島とダットは合併して自動車工業株式会社が発足。

1937年には東京瓦斯電気工業が自動車工業に合流し、東京自動車工業株式会社が設立されました。

その後1941年に、ディーゼルエンジンの製造許可が下りたことから、ヂーゼル自動車工業へと改称。

1942年には旧東京瓦斯電気工業の日野製作所が日野重工業として独立し、現在の日野自動車へと発展していきました。

第二次世界大戦終戦から現在

第二次世界大戦終戦翌年の1946年、軍需産業であった日野重工業は民需転換により日野産業へと改称。

民生用のセミトレーラートラックや、セミトレーラーバスの製造を行います。

そして1953年に仏 ルノーと提携し、4CVのノックダウン生産を開始。

これをきっかけに、乗用車の製造に乗り出しました。

そして1960年に日野自動車工業へと会社名を変更し、翌1961年にはセダンのコンデッサ900と小型トラックのブリスカの製造を開始します。

その後1966年のトヨタとの協業、1967年のコンデッサの生産終了を経て、現在のバス・トラックメーカーになりました。

日野自動車の名車

日野自動車が乗用車を生産したのはわずか20年弱ですが、この期間に今も語り継がれる名車を生み出しています。

日野ルノー 4CV

日野ルノー 4CV

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB4CV

1953年の仏 ルノーとの提携により、日本国内でノックダウン生産されました。

日野は部品調達率を徐々に低下させ、1958年には完全国産化に成功。

フランスでは1961年に生産終了となりましたが、日本では1963年まで製造され、日本の交通事情に合わせ足回り、バンパーの大型化、エンジン強化などの独自カスタマイズが行われています。

日野 コンテッサ900

日野 コンテッサ900/出典:https://www.flickr.com/photos/kemeko/6897282194/

日野がルノー 4CVの製造で得た乗用車生産ノウハウを活かし、同社初の完全自社開発で生産した3ボックスのセダンです。

1961年のデビュー時こそ、ルノー製0.9リッターエンジンを搭載していましたが、1964年に登場した実質的な後継モデルと言える『コンテッサ1300』には日野製1.3リッターエンジンが搭載され、高性能化を果たしました。

日野 スプリント1300GT

クーペモデルのコンテッサ900スプリントのスタイリングを踏襲し、さらに洗練された美しいスタイリングを試作した車です。

コンテッサに1.3リッターエンジンが搭載されたころから開発が始まり、エクステリアはイタリアのミケロッティ、メカニズムはアルピーヌが担当しています。

試作車完成後は1966年のパリサロンでお披露目されましたが、市販化には至りませんでした。

日野 ブリスカ

2代目日野 ブリスカ1300 /出典:http://www.imcdb.org/vehicle_359253-Hino-Briska-1965.html

コンデッサと、パーツの多くを共用して開発された小型トラックです。

日野 ブリスカはプリンス スカイライン同様、モデルの販売権が他メーカーに移った珍しい車です。

日野に代わり販売権を取得したのはトヨタで、その裏側には1966年から始まったトヨタとの業務提携で日野は大型トラック製造に専念する事になるという事情がありました。

ちなみにブリスカは、トヨタ車となった後、モデルチェンジを受けてトヨタ ハイラックスとなりました。

日野 サムライ

出典:www.italian.sakura.ne.jp

日野 サムライは、日野がレースのプライベーターのために制作したレーシングカーです。

1967年の第4回日本GP出場のために日本に輸送されましたが、日本GPのレギュレーションに合致せず、出場が認められなかった迷車です。

日本GPの主催者が日野 サムライのレース出場を認めなかった理由は、テスト走行をしていないことと、30度バンクに耐えられるエンジン構造でないことでした。

まとめ

日野自動車は1967年にコンデッサの生産を終了し、乗用車市場からは撤退します。

その後はトヨタグループのバス・トラック専門メーカーとして、確固たる地位を確立。

最近では日野 プロフィアに、進路の勾配を先読みするAIを搭載したハイブリッドシステムを世界で初採用し、業界をリードしています。

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