この”伊達男”を知っている方は、かなりのレース通かもしれません。彼の名は、ステファン・ベロフ。日本での中継放送がスタートする以前、1984年にF1デビューを果たし通算戦績は20戦0勝ながら、アイルトン・セナと並び称されるほどの速さで知られました。わずか27年の生涯の中で、いくつかの伝説を残しています。今回は特に有名なエピソードとともに、彼の足跡を振り返っていきたいと思います。
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”旧ニュルブルクリンク最速の男”
世界で最も危険なサーキットとして知られるニュルブルクリンク北コース、通称「ノルドシュライフェ」。
1周20km超、大小172ものコーナーが待ち構え、最大高低差は実に300メートル。
狭い道幅に関わらず平均速度200キロに迫る非常にリスキーなサーキットです。
このノルドシュライフェのコースレコードを保持しているのがステファン・ベロフ。記録を残した当時、まだ25歳のルーキーでした。
それから30年経った今でも破られていない伝説のレコードタイムとして知られています。
1983年の世界耐久選手権 第3戦、この地で行われた1000km耐久レースの予選では、ポルシェ・ワークスチームのヨッヘン・マスが6分16秒というコースレコードを記録。
グループC最速を誇ったポルシェ956の速さは圧倒的で、マスがポールポジションを獲得することは疑う余地も無い状況でした。
その彼の後を追って、マスのチームメイトでWEC参戦2戦目のベロフがコースイン。
既に名門ポルシェが認めた”天才”として知られていた彼。
そのドライビングに、観衆や関係者は度肝を抜かれることになります。
アップダウンの激しいコースでは挙動を乱しやすいマシンを、派手に縁石をまたぎ、高速コーナーでスキール音を上げるほどスライドさせ、まさに鬼気迫る走りを披露。
ベロフが叩き出したラップは、マスを5秒も上回る”6分11秒13”。平均速度は実に202km/hに達していました。
マスがポールポジションを抑えたという状況でこれだけのリスクを冒すことは、もちろんチームの意向ではありません。それは、言ってしまえばベロフの本能でした。
目の前の走りに全身全霊を傾け、常に”120%のドライビング”という彼のスタイル。ゆえに、肝心のレースでは脆さを見せてしまうことも少なくなかったのです。
迎えた決勝ではチームの指示より20秒近く速いラップで走り続けた結果、19周目に宙を舞うほどの大クラッシュ。
幸い彼は無傷で生還しますが、戻ってきた彼は怯えるどころか冗談を飛ばすほど元気で、チーム関係者を安堵させます。
しかし、彼を本気で心配する人々は少なくありませんでした。
ステファンは、そりゃビックリするくらい速かった。でも同時に、少しばかり狂気が混ざっていたという気もするな・・・
『マーティン・ブランドル談 Racing on No.439 48Pより抜粋』
Racing on No.439 電子版:特集:ポルシェ・モータースポーツ[Part2] PORSCHE Lives.
F1でのチームメイトが語るように、クラッシュを恐れない速さへの執着は”命の危険”を含んだものであった、とは当時から囁かれていたのです。
ステファン・ベロフのキャリア
1957年、ドイツ西部の都市ギーセンに生まれたベロフは、15歳の頃から兄とともにカートに乗り始め、レース活動をスタート。1980年に入門フォーミュラであるFF1600にステップアップを果たし、いきなりチャンピオンを獲得し才能を示します。
翌年にはベルトラム・シェーファーレーシングからドイツF3に参戦、スポット参戦ながら4勝を挙げシリーズ3位。この頃にはメーカーや有力チームからの注目を集め始めました。
一方で、チームを率いたシェーファーはベロフのことをこう語っています。
「彼にとって、勝つことやクラッシュすることはどうでもいいことだった。
ただとにかく、速く走ることだけが関心事だったんだ。」
『ベルトラム・シェーファー談 Racing on Archives Vol.10 94ページより抜粋』
Racing on Archives Vol.10 電子版:ポルシェ956/962C
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チャンピオンになる、より良いマシンをドライブする、そしてF1へのステップアップを果たす。この目標を果たす為の手段は、前述の”常に120%のドライビング”でした。
それがゆえのアクシデントやリタイアは、当時から珍しくなかった様です。
しかし彼の速さはファンだけでなく関係者たちさえも魅了し、82年にはBMWの後押しでマウラー・モータースポーツからヨーロッパF2にフル参戦。いきなり開幕2連勝を果たす活躍を見せるのです。
彼のキャリアを簡単に振り返ったところで、次のページではポルシェ・ワークス時代やF1時代をご紹介。
“セナよりも速かった”という事実がタイムに表れていたんです。