チャンピオン経験はなく、F1では通算3勝しかしていないものの、 雨のレースに滅法強く 、コース幅が狭くドライバーの技量が問われるコースでも、正確なドライビングで結果を残したイタリア出身のF1ドライバー。そして2003年1月には3年連続5度目のチャンピオンを獲得したミハエル・シューマッハを抑えて「ドライバー・オブ・ドライバー」に選出された人物。それが、ジャンカルロ・フィジケラ、愛称フィジコです。必ずしもチャンスに恵まれなくても、常にファイトある走りで記憶に残るイタリア人ドライバーの活躍を振り返ってみましょう。

 

2009年イタリアGPでのフィジケラ 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャンカルロ・フィジケラ

 

下位チームで苦戦そして初優勝まで

ミナルディからジョーダンそしてベネトン

 

ベネトンB199 1999年カナダGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

1996年、ミナルディからF1デビューすると、非力なマシンでの好走が認められ、1997年にジョーダンに移籍。

表彰台を2度獲得するも、ドイツGPではゲルハルト・ベルガーとの接戦の末惜しくも初優勝を逃してしまいます。

そして、1998年にはベネトンに移籍し、オーストリアGPで初ポールポジションを獲得するもチームの低迷期が災いし、2001年までのベネトン在籍4年間には期待されたほどの成績は残せませんでした。

 

110戦目で遅咲きの初優勝そしてトップチーム加入

 

ジョーダンEJ12 2002年アメリカGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA

 

2002年にはジョーダンに復帰。

競争力のないチームで健闘し、2003年に第3戦ブラジルGPにて念願の初優勝を達成します。

それはF1デビューから8年目、出走110戦目という遅咲きの勝利でした。この時のチームメイトはF1デビューしたばかりの佐藤琢磨です。

2004年にザウバーに移籍すると、粘りの走りでポイントを重ね、古巣のベネトンを前身とするトップチーム、ルノーのシートを獲得しました。

 

トップチームルノー時代

トップチーム加入もチームメイトにアロンソがいた不運

 

ルノーR25 2005年アメリカGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

2005年、ルノーR25が絶好調ということもあり、開幕戦オーストラリアGPでポール・トゥ・ウィンを飾り、ついにフィジケラの時代到来と期待が高まります。

しかしこの年、史上最年少でチャンピオンに輝いたチームメイトのフェルナンド・アロンソが立ちふさがる結果に。

また、フィジケラ自身も完走率が低く、期待されたようなシーズンとはなりませんでした。

 

理想的なナンバー2ドライバーという屈辱

 

表彰台の頂点に立つフィジケラ 2006年マレーシアGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

ルノー2年目の2006年、フィジケラは第二戦マレーシアGPで鮮やかなポール・トゥ・ウィンを飾ります。

前半戦はチームメイトのアロンソには及びませんでしたが、2005年を上回るペースでポイントを稼ぎ、彼にとってF1シーズンベストのである、ドライバーズランキング4位の成績となりました。

ちなみにチームメイトのアロンソは2年連続チャンピオンに輝き、フィジケラは「理想的なナンバー2ドライバー」という皮肉めいた称号もささやかれたのです。

 

エースドライバーから一転、放出へ

 

ルノーR27 2007年イギリスGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

アロンソのチーム離脱により、在籍3年目のフィジケラはルノーのエースドライバーとなります。

しかしルノーはブリヂストンタイヤへの対応に苦しみ、フィジケラ自身もシーズンが進むにつれ、新しいチームメイトのルーキー、コバライネンに予選決勝共に先行を許してしまうレースが続いた結果、放出される事が決定。

その為、シーズンオフはフォース・インディアのシートを得るためテストを行い、並みいるライバルを振り切って2008年1月に正ドライバーに選ばれました。

フォース・インディアは元ジョーダンであり、フィジケラは2度に渡り古巣へもどることになったのです。

 

下位チームでも好走、F-1通算出走回数200戦を達成

 

フォースインディア 2008年モナコGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

トップチームであるルノーから最下位のチームへの移籍となりましたが、非力なマシンでも活躍する事が多いフィジケラ本来の輝きを見せるシーズンとなりました。

尚、第6戦モナコGPではF1通算出走回数200戦を達成しています。

 

憧れのフェラーリへ電撃移籍、そして引退まで

 

フォース・インディアVJM02 2009年ドイツGP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

2009年もフォース・インディアから出走。

シーズン中盤までには、入賞まで後一歩という順位でフィニッシュするレースも多くありました。

そして第12戦ベルギーGPではポールポジションを獲得。

決勝では、フェラーリのキミ・ライコネンと僅差で2位フィニッシュ!フォース・インディアに初ポイントと初表彰台をもたらしたのです。

 

念願のフェラーリ加入そして引退

 

フェラーリF60 2009年日本GP 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%B1%E3%83%A9

 

第10戦ハンガリーGPで負傷したフェリペ・マッサの代役として,第13戦イタリアGPからフェラーリへ移籍することが発表されます。

しかし、2009年限りでの引退が明らかにされ、2010年はフェラーリのテストドライバーに就任することも発表されました。

イタリア人ドライバーの例にもれず、かねてからフェラーリへの憧れを抱いていたフィジケラはこの移籍を「長年の夢」と表現していましたが、この年のフェラーリF60の信頼性と競争力は十分とは言えず、シーズン中のテスト禁止の制約もあってマシンを十分に乗りこなす事は出来ませんでした。

そして発表通り、最終戦アブダビGPをもってF1からの引退となったのです。

それは、出走回数231回という長いF1キャリアの終焉でした。

 

その後のフィジケラ

F1引退後もフェラーリとの関係は続き、2010年にはフェラーリのサードドライバーを務める傍ら、ジャン・アレジと共にAFコルセからル・マン・シリーズにフル参戦します。

そして、2012年から2015年にかけてはFIA 世界耐久選手権に参戦し、2016年には同じくAFコルセからブランパンGT選手権とFIA 世界耐久選手権に参戦するなど、レーシングドライバーとしての道はまだまだ続いているのです。

 

まとめ

 

サッカーファンのフィジケラは地元ASローマの大ファンであり、ドライバーが参加したイベント試合では「フィジケラが一番上手い」との評判でした。

また、大のガンダム好きとしても有名で、自身のコラムなどにも度々登場しています。

F1デビュー当初より、才能があるといわれながらなかなかチャンスにめぐまれず、一時期は「盛りを過ぎたドライバー」と言われた時期もありますが、下位・中堅チームでしぶとく結果を残し、再浮上のチャンスをつかんだフィジケラ。

予選で下位に沈んだ場合でも、決勝では順位を多く上げてフィニッシュすることが多く、決勝に強いが予選が苦手というファイタータイプのドライバーで、F1では通算3勝をしたのみでした。

しかし、記録以上に記憶に残る名ドライバーの1人なのです。

 

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