名門F1チーム、フェラーリにとって忘れられないドライバーのひとりが、F1通算25勝、3度の世界チャンピオンを獲得した天才ドライバー「ニキ・ラウダ」です。1971年のマーチでF1デビューを飾ったニキ・ラウダですが、その後の1973年のBRMまで目立った成績もなく、1974年のフェラーリからが本当の意味での「ラウダ伝説」の始まりました。大きな事故を乗り越え、ドライバーだけでなくビジネスマンとしても大成功を果たした彼の生涯を振り返ってみましょう。
CONTENTS
ラウダ伝説ファースト・シーズン 栄光のフェラーリ時代
ラウダ、初のワールドチャンピオンを獲得
フェラーリでの活躍が記憶に残るラウダですが、在籍していた期間は僅か4年。
デビューとなった1974年は、スペイングランプリでの初優勝を自身初のポール・トゥ・フィニッシュで飾りました。
また、この年は2勝で終わりましたが、操縦性に難の有った312Bを徹底したテスト走行で熟成させる事に成功しています。
そして、その結果誕生した新型の312Tは速さと安定性を備えた名機となり、ラウダは1975年シーズンを5勝9ポールという成績で初のワールドチャンピオンを達成したのです。
翌1976年は、9戦終了時点で5勝をあげ、2年連続のワールドチャンピオンはもはや時間の問題とみられていました。
そうして迎えたニュルブルリンクの第10戦ドイツグランプリで、あの悲劇に見舞われたのです。
悪夢のニュルブルクリンク高速コーナー
高速コーナーで突然コントロールを失ったラウダのフェラーリ312Tは、キャッチフェンスを突き破って岩に衝突、そして炎上してしまいます。
ラウダは一命をとりとめましたが、衝撃でヘルメットが脱げてしまい、頭部に大火傷と肺に大きなダメージを負う重症となってしまったのです。
幸い、数日間生死の境をさ迷よったものの、ラウダは奇跡的な回復を見せます。
そして、事故発生から6週間後の第13戦イタリアグランプリで復帰を果たし、4位に入賞したのです。
顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っていても気にせずグランプリに帰ってきた事、そして奇跡的な復帰劇が「不死鳥ラウダ」と呼ばれる所以なのです。
そうしてラウダ不在の間に勝ち続けたマクラーレンのジェームス・ハントとのチャンピオン争いは熾烈をきわめます。
決着がついたのは、何と日本の富士スピードウェイで行われた最終戦「F1イン・ジャパン」でした。
大雨の中、スタート直後に危険だとして走行を中止しリタイヤしたラウダに対し、大雨をものともせず3位でフィニッシュしたハントは、わずか1ポイント差でワールドチャンピオンに輝きました。
2度目のワールドチャンピオン、そしてフェラーリとの決別
1977年には2度目のワールドチャンピオンを獲得。
それにより、ラウダは不死鳥の名を世界に知らしめました。
しかし、御大エンツォ・フェラーリとの確執からシリーズを2戦残し、ラウダはフェラーリを去ってしまうのです。
そして1978年、1979年とブラバムから出場したのちに、遂に引退を決意する事になりました。
ラウダ伝説スピンオフ(番外編)ビジネスマン、ニキ・ラウダ氏
この時期、ラウダのもうひとつの顔、ビジネスマンとしてのニキ・ラウダは航空機事業に進出していました。
母国オーストリアのウィーン国際空港を拠点とした「ラウダ航空」の経営の方も成功し、ラウダ自身も操縦桿を握りフライトをしたこともあるそうです。
「機長のニキ・ラウダです。」という機内放送を聞いた幸運な人もいたはずで、他の航空会社より早く目的地に到着しそうな気がしたのではないでしょうか。
しかし、1991年5月26日、ラウダ航空は墜落事故を起こしてしまいます。
その事で経営危機となり、事業を手放さざるをえなくなりました。
それでも、ここで終わらないのが「不死鳥」ニキ・ラウダです。
その後2003年にアエロ・ロイド・オーストリア航空を買収し、社名を「ニキ航空」として、LCC航空事業を展開します。
また、保有する20機以上の旅客機は事故を起こして責任問題で争ったボーイング社製ではなく、全てエアバス社製となっていました。
航空機事業においても、事故から見事に復活する姿は、ビジネスマンとしても「不死鳥」の名を欲しいままにしました。
ラウダ伝説セカンド・シーズン3度目のタイトルと2度目の引退
ラウダはマクラーレンのロン・デニスとマールボロ から誘われる形で1982年にF1へ衝撃の復帰をとげます。
そして、アメリカ西グランプリで復帰後初勝利を飾るなど計2勝を記録し、見事に復活をアピールしました。
しかし、翌1983年は5戦中7戦でリタイアするなどマシンの信頼性不足に苦しみ、ランキング10位。
それでも翌1984年、地元オーストリアでの最初で最後の勝利を含む5勝をあげ、3度目のワールドチャンピオンに輝いたのです。
この時のチームメイトは翌年タイトルを取ることになるアラン・プロストで、7勝をあげて予選でも常にラウダに勝っていました。
それでも着実にポイントを重ねるラウダには、わずかに0.5ポイント差で届かず、惜しくも勝利を逃すのです。
そして、ラウダは1985年、オランダグランプリでF1通算25勝目となる最後の優勝を飾り再び引退する事を決めました。
まとめ
F1においては瀕死の事故から復活し、翌年にはタイトルを獲得!
引退から復帰するとまたタイトルを獲り、ビジネスにおいては一度手放した航空機事業を再び復活させるなど、「危機」と「復活」がニキ・ラウダの人生そのものといえます。
そして、その不屈の精神が今なお人気の衰えない理由なのではないでしょうか。
プライベートで2度目の結婚もし、60歳で双子の父親になった事も逸話のひとつに入れてもいいかも知れません。
その後多くのドライバーが登場し、記録ではラウダをも上回る選手も数多くいますが、ラウダほどの不屈の精神を持ったドライバーは、今後も出現しないのかも知れません。
また、ラウダの活躍をあまりご存じないモータースポーツファンなら、もうひとりの天才ドライバージェームス・ハントとのライバル関係を、描いた映画『RUSH』もあわせてご覧になってみてはいかがでしょうか。
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