65年以上の歴史を持つF1の中で、最も強かったドライバーは誰か?というのは、F1に興味があるファンには常に付いて回る疑問だろう。もちろん、それぞれの時代、それぞれのレギュレーション下で歴代活躍選手は戦ってきたため、一概に比べることはできない。しかし記録という点で見ていくと明らかに最強なのはミハエル・シューマッハだろう。通算91勝、69回のポールポジション、そして7度のワールドチャンピオン。どれもF1歴代最多記録だ。全盛期時代は「皇帝」とまで呼ばれた彼のレースキャリアを振り返って行く。

http://formula1.ferrari.com

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デビュー戦で予選7位、驚きとともに始まった天才の快進撃

©鈴鹿サーキット

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4歳の時に父から与えられた原動機付きペダルカーがきっかけでレースのみ道へと歩んでいったシューマッハ。

F3にステップアップしたころに地元ドイツの強豪メルセデスの若手育成プログラム「メルセデスジュニアチーム」に加入。1990年にはドイツF3を制し、のちにF1でもチャンピオン争いを繰り広げるミカ・ハッキネンのマカオF3で対決。

最終ラップに因縁の残る接触があったが、見事勝利した。

翌1991年はSWC(現在のWEC)に参戦していたが、急きょ参戦できなくなったレギュラードライバーの代役としてジョーダンチームからF1デビュー。

その舞台となったベルギーGPで、並み居る強豪を抑えて予選7番手という快進撃をみせた。

当時のジョーダンはF1にステップアップしたばかりの弱小チーム。彼らの戦闘力でパワーも求められるスパ・フランコルシャンでの活躍に、関係者のほとんどが驚きの様子を見せた。

しかし決勝ではマシントラブルのため、あっという間にリタイアとなるが、すぐに彼の才能に目をつけたベネトンチームのボスであるフラビオ・ブリアトーレがすぐに引き抜き翌イタリアGPからレギュラー参戦。

3戦連続で入賞を飾るなど、新人らしからぬ走りをみせた。

©鈴鹿サーキット

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そのまま1992年からベネトンのエースとなり、デビューの地となったベルギーGPで初優勝。

着実に力をつけていき、ついに1994年は開幕戦から勝利を重ねていく。この年はアイルトン・セナとのタイトル争いに注目が集まったが、第3戦サンマリノGPでセナが事故死。夢の対決は叶わなかった。

セナのチームメイトだったデーモン・ヒルと最終戦までチャンピオン争いを展開。

わずか1ポイント差、最後が両者同士討ちと後味の悪い結果となったが、初のチャンピオンを獲得。

続く1995年は、後に彼の右腕として活躍する名参謀ロス・ブラウンとの巧みなレース戦略でライバルを翻弄。

当時としては史上最年少での2年連続チャンピオンに輝いた。

 

フェラーリ再建のため電撃移籍

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F1界はセナという英雄を失ったが、その後任に就くかのようにシューマッハが台頭。

ベネトンチームとともに無敵に近い状態まで上り詰めた。

しかし、彼は自分に試練を課すかのように同年いっぱいでベネトンを離れることを決断。移籍先として選んだのは、名門フェラーリだった。

当時のフェラーリは1年に一度勝てるか勝てないかという状況。

長い歴史の中でも一番の氷河期が続いており、名門というよりかは古豪という状態だった。

そのフェラーリ再建のためにシューマッハは1996年から加入。「3年でタイトルを獲得する」と約束した。

 

世界中のファンを魅了した、“最大のライバル”ミカ・ハッキネンとの死闘

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そして約束の3年目となった1998年。この年はタイヤがスリックから溝付タイヤに変更され車幅も200m縮小されるなど、大幅にレギュレーション変更。

これにより大きく勢力図が変わりマクラーレン・メルセデスが躍進。ハッキネンが序盤からシリーズをリードしていく。

一方シューマッハ率いるフェラーリも中盤戦で巻き返しを見せ、4ポイント差で最終戦鈴鹿へ。

予選ではポールポジションを獲得するが、決勝スタート前にエンジンストールを起こし、まさかの最後尾へ。

それでも作戦を変更するなど最後まで諦めない走りを見せたが、レース後半にタイヤがバーストしリタイア。

ちょうど8年前にF3の世界王座をかけて争ったライバルとのF1王者対決。今回はハッキネンに軍配が上がった。

翌1999年は課題だった開幕戦からの勝利を重ねチャンピオン争いでも有利な立場に出たがイギリスGPでブレーキトラブルにより大クラッシュ。

右足骨折という重傷で後半戦を欠場。同時にタイトル争いからの脱落を余儀なくされ、この年もハッキネンがチャンピオンを獲得した。

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そして2000年、彼らは各レースで0.001秒を争う激闘を繰り広げる。

特に多くのファンに語り継がれているのが第13戦ベルギーGP。時速300kmを超えるケメルストレートで2人が接触寸前のバトルを披露。

追いかけるハッキネンが何度もトライするが、シューマッハも絶妙なところでブロックするという攻防が数週続き、最後はハッキネンが周回遅れを挟んで一番イン側からトライ。ついに突破口を開いてトップ浮上。そのまま優勝を飾った。

その他でもハッキネンが攻めれば、シューマッハも応戦するなど、彼ら2人にしか分からない極限のチャンピオン争いが繰り広げられていた。

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最終的に鈴鹿での日本GPで決着し、シューマッハが自身としては3度目のチャンピオン獲得。

フェラーリとしては21年ぶりにドライバーズチャンピオン獲得という快挙を達成。予定より2年遅かったが、彼はしっかりと約束を果たした。

そして、この年のハッキネンとのバトルは今でも多くのファンの記憶に残っているほど、ベストシーズンとなったことは言うまでもない。

 

 

ここからシューマッハとフェラーリは無敵の黄金期に突入していく(次のページへ)