フェラーリ創始者のエンツォ・フェラーリも惚れ込んだ伝説のレーサー「ジル・ヴィルヌーヴ」。優勝回数6回と目立つ記録ではありませんが、1度見たら決して忘れることのできないその走り、常に自分自身と車の限界を引出しフェアでクリーンなバトルを演じました。今回は“記録より記憶に残るレーサー”ジルの走りを振り返っていきたいと思います。

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“カーナンバー27”=“ジル・ヴィルヌーブ”

出典:https://www.facebook.com/JosephGillesHenriVilleneuve/

ジル・ヴィルヌーヴが最後に背負ったカーナンバー「27」は、彼の死後伝説となり誰もが憧れるカーナンバーとなりました。

ジルがドライブしていたフェラーリのオーナー、エンツォ・フェラーリやフェラーリファンであるティフォッシから27番を永久欠番にすることが望まれたほど神聖なる存在であったジル・ヴィルヌーヴ。

何がそれほどまでに人を魅了したのか?

その答えを紐解いていきます。

 

レーサー・ジル・ヴィルヌーヴ誕生

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ジル・ヴィルヌーヴは雪国特有のスノーモービルレースの選手として活躍していましたが、1973年に自動車レースの世界へ。早速フォーミュラ・フォードでチャンピオンを獲得しています。

その後フォーミュラ・アトランティック(FAt)シリーズに参戦し1976・77年度と2連覇を達成。

FAtで同じレースに参戦した76年F1チャンピオンであるジェームス・ハントがジルに惚れ込み、ハント推薦のもとマクラーレンよりスポット参戦しF1デビューを果たすのです。

ジルがフェラーリ以外で走った唯一のレースでもありました。

 

跳ね馬騎士、ジル・ヴィルヌーヴ誕生

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デビュー戦の走りを高く評価したマルボロより推薦を受けたフェラーリが。ジルにコンタクトを取ります。そこで驚くべき答えが返ってきたのです。

「テストには行くがその前に契約をしてくれ。イギリスで僕の走りを見ただろ?僕は速いんだ」

F1新参者のジルに対しての答えは当然“NO”でしたが、最終的にフェラーリの本拠地マラネロに足を運ぶこととなります。

そこでエンツォと長時間話し込んだジルは、本当にテスト走行をせずにフェラーリとの契約を取り付けてしまうのです。

いったいどんな話がされたのか?それは2人以外知る人はいないのです。

1つだけ言えることは、エンツォはジルの走りと人物両方に惹かれたということでしょう。

跳ね馬騎士、ジル・ヴィルヌーヴがここに誕生したのです。

 

“エア・カナダ” ジル・ヴィルヌーブ

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これは決して航空会社の名前ではなくジルが跳ね馬騎士になってからしばらくの間揶揄された呼び名です。

フェラーリに乗り始めてからもジルの限界を極めるあまりクラッシュして宙を飛ぶこともしばしば。

1977年に富士スピードウェイにて行われた日本GPでは、他車に乗り上げ宙を舞い、立ち入り禁止区域にいた観客がいるエリアに飛び込んでしまい、多数の死傷者を出すアクシデントも起こしてしまいました。

そのため「速いが荒い」というレッテルを張られ「フェラーリに相応しくない」とメディアやファンから非難を浴びることに。

それでもジルは常に全開というスタイルを変えることはなくエンツォも彼の擁護に徹したといいます。

「ゆっくり様子を伺って徐々に全開にしていけばいいじゃないか?」

というニキ・ラウダの問いに対してジルはこう答えたといいます。

「ニキ、僕の知ってるやり方はこれしかないんだよ。常に全開で行くんだ。それから抑えていけばいい。」

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1978年の地元カナダでの初優勝と翌年ペアを組むジョディー・シェクターの登場によりジルのキャリアに大きな転機が訪れるのです。

 

ジョディー・シェクターvsジル・ヴィルヌーブ

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1979年、ジルはチームメイトのジョディー・シェクターとチャンピオン争いを展開。

3勝を挙げますが、No.2という立場を十分に理解した上でシェクターとチームのフォローに徹し、最終的にシェクターが王座に輝きました。

それでも彼の十分な貢献で、この年のフェラーリはドライバー・コンストラクターチャンピオンシップの二冠を獲得しました。

公私共にジルと非常に良いパートナーであったシェクターはのちにこう語っています。

「ジルがチームメイトで良かった。そうでなければ私はチャンピオンにはなれなかった」

彼の援護を行うためにステディーさを得たジルでしたが、その影に隠れることなく常に全開というジルの姿勢は変わらず、未だに語り継がれるバトルや伝説を生み出しています。

その一つが、ディジョンで行われたフランスGP。

この激しいバトルの相手となったルネ・アルヌーはこのバトル後にこう語っています。

「ジルは絶対に幅寄せや体当たりをしてこない。そうわかっていたからこそあのバトルができたんだよ。」

また、この激しすぎるバトルに関して意見を求められたマリオ・アンドレッティはこう揶揄したといいます。

「2頭の若いライオンがちょっと戯れただけだろ?それくらいいいじゃないか」

現代ではととも考えられないような出来事ですが、これが本当のレーサー、レースといえるのではないでしょうか。

ザンドボルトで行われたオランダGPではトップ走行中に左リアタイヤがバースト。

ピットに戻り再スタートを試みるもバーストしたタイヤで全開走行をしてしまったためサスペンションを壊しリタイヤとなってしまいました。

例え3輪になっても車が動く限りレースを続けようとするその姿勢が「レーサー・ジル」の真骨頂。

このスタイルが、よりエンツォやティフォッシたちの心を掴んでいったのです。

 

ヴィルヌーヴ・トレイン

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1981年よりディディエ・ピローニをパートナーに迎え、ターボエンジンを搭載したフェラーリはじゃじゃ馬と化し操縦が困難なマシンとなっていました。

荒ぶる跳ね馬を手懐けて勝利したモナコGPを始め、不利な状況のなか2秒以内に4台がひしめくレースを制したスペインGPなど逆境をはね除けたレースを展開。

フェラーリを先頭にまるで電車のように連なったF1マシンたちは、「ヴィルヌーヴ・トレイン」と呼ばれ、ジルのベストレースの1つとして未だに語り継がれています。

地元カナダGPではフロントウィングを壊しながらもゴールに辿り着き3位を獲得。

激しい中にも繊細なレースをするジルが見られ、環境さえ整えば、十分にチャンピオンとなれる器があることを証明したのです。

 

修復不可能になったジルとデディエの関係

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1982年、車もチームも安定しジルにもワールドチャンピオン狙える体制が整いました。

2人のドライバーもお互いを理解し良い関係を築いていましたが、第4戦サンマリノグランプリでディディエがジルを裏切り勝利を奪ってしまいます。

これをきっかけに二人は口をきかないほど不仲となってしまい、チームは険悪なムードが漂います。

ジルの激怒した裏には1979年のシェクターとの関係に起因していると言われています。

当時の自分が徹したように、No.2のデディエはNo.1の自分をサポートをすべきであると考えていたのでしょう。

完全に修復不能となってしまったジルとデディエ。そして次のベルギーGPでの悲劇を起こす引き金となってしまうのです。

 

最後の全開アタック

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第5戦ベルギーGP予選2日目、デディエにタイムで抜かれたと聞いたジルは鬼気迫る雰囲気でコースインしタイムアタックを開始。

アタック中のジルはコース中盤でスロー走行しているヨッヘン・マスと遭遇。彼のリアタイヤに乗り上げたジルのマシンは宙を舞い、まるでエンブレムのように荒ぶった跳ね馬フェラーリ‌‍前部は完全に粉砕され騎士を放り出してしまいます。

ジルはコース反対側のフェンスまで飛ばされフェンスの支柱に頭部および頸椎を強打し病院に搬送されましたが帰らぬ人となりました。

レースの世界に「if(もし)」は存在しませんが、もしもサンマリノの事件がなかったら、マスと接触していなかったら、支柱ではなくフェンスだったら、事故がなかったら82年のタイトルは、など様々な「if」が語られたのは言うまでもありません。

しかしながら残念な結果を生んでしまう最後の全開アタックとなってしまったのです。

 

Salut GILLES ~ 伝説になったレーサー ~

©︎Pirelli

事故後、各地でジルの功績を称賛する声が様々なところで上がりました。

フェラーリの地元イタリアでは「ヴィルヌーヴ」の名をつけた通りやコーナーができ、地元カナダでは最高の賛辞を送り、現在のカナダGPの舞台でもあるイル・ノートルダムサーキットを「ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット」と名称変更。そのスタートラインには「Salut GILLES」(やあ、ジル)と刻まれたのです。

エンツォ・フェラーリがのちにこう述べています。

「今まで何人もの偉大なドライバーを見送ってきた。そしてそこにまた一人刻まれてしまったよ。偉大な息子であるジル・ヴィルヌーヴがね」

普段はめったに自身の感情を表に出さないエンツォが吐き出したジルへの思い。

ジル・ヴィルヌーヴというレーサーが残した功績がこのエンツォの言葉に詰まっているのではないでしょうか。

まとめ

ジル・ヴィルヌーヴの記憶をここに蘇らせてみましたがいかがだったでしょうか?

レースをするためにこの世に生を受けたジルの意思を継ぐ者は未だに多く居り今後も語り継がれていくことでしょう。

死をも恐れない常に全開を貫き通した記録より記憶に残るレーサー、ジル・ヴィルヌーヴという選手がいたことを是非記憶に留めておいて下さい。

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