1960年代から日本にもスーパーカー的なモデルが登場してきましたが、いずれもレース専用であったり、コンセプトカー止まりで終わってしまい、市販車としては初代NSX(1990年)の登場を待たねばなりませんでした。『童夢 零』も市販化を熱望されながら叶わなかった1台ですが、プラモデルやラジコンなどで想定外の版権収入をもたらし、同社の礎となった伝説のモデルです。

 

童夢 零 / 出典:http://dome-museum.com/007_dome_zero.html

 

 

儲からぬレーシングコンストラクターからスポーツカーメーカーへの転身

 

童夢 零  / Photo by 弧月いう Yuu Kogetsu

 

童夢を立ち上げた林 みのる氏は、1965年に、以前から親交のあった伝説のレーシングドライバー、浮谷 東次郎(故人)からの依頼によりホンダ S600改”カラス”用のFRP製空力パーツを製作したことで、レーシングカーコンストラクターとしての道を歩み始めます。

同氏はその後レーシングカーの製作を行うマクランサを設立するも、当時の日本では需要などほとんど無い状況で商業的には成功できず、1971年のフォーミュラカー・PANICを最後にレーシングカーコンストラクターとしての活動を休止。

 

故 浮谷 東次郎の依頼で開発した、レーシングカーコンストラクター・林 みのるのデビュー作、ホンダ S600改”カラス”  / 出典:http://dome-museum.com/001_karasu.html

 

商売にならないレーシングカーではなくロードスポーツカーの開発・販売企画として、1975年にマクランサの片隅で童夢プロジェクトが始動しました。

やがてプロジェクトは林 みのるの従兄弟、林 将一が創業したハヤシレーシングに間借りする形で移転し、食い詰めたレーシングコンストラクターのたまり場となっていきます。

中核となったのは林 みのるの他、由良 拓也(ムーンクラフト代表)、マキF1の主要メンバーだった三村 建治(現・エムアイエムデザイン代表)と小野 昌朗(現・東京R&D代表CEO)という、錚々たる面々です。

そして1976年頃から本格化したプロジェクトは超ハードスケジュールで進められ、スタッフは時々風呂に入る以外はアパートにも帰らず、1978年に零(ゼロ)が完成した頃には前述の4人全員が妻に逃げられていたという、突拍子も無いエピソードがついてきました。

しかし、そこまでして早急に完成させた零は同年のジュネーブモーターショーへの出展に間に合い、プレスデイで熱狂的な評価を受けた事から、当初予定していた会場の片隅ではなく、主催者のはからいにより急遽会場内の目抜き通りへの展示、つまり『ショーの目玉』となったのです。

 

版権で大儲け!市販車よりレースをやろう!

 

童夢 P-2  / 出典:http://dome-museum.com/011_dome_p2.html

 

日本からやってきた、凄まじく車高の低い(全高わずか980mm)スポーツカーは、たちまち人気沸騰となりました。

単に車高が低いだけでなく、極端なウェッジジェイプ(クサビ型)で冷却用のインテークやアウトレットを各所に開き、ポップアップ式のガルウイングドアとリトラクタブルライト、後方視界などはほとんど考慮していない各ウィンドウなど、スーパーカー要素満載です。

横置きミッドシップにマウントされたエンジンは国産にこだわった結果、145馬力の日産L28(直列6気筒SOHC2.8リッター)だったので、動力性能面で見るべきところはありません。

それでも車重は同じエンジンを積むS130フェアレディZより300kg以上軽い920kgで、低重心と四輪ダブルウィッシュボーン式サスペンションにより、パワーは無くともヒラヒラと舞うように走るタイプのスーパーカーであることは安易に想像可能で、そうした走りへの予感や近未来的スタイリング、デジタルメーターやハンドジェスチャーで作動するウィンカーなど最新装備もあり、価格や発売時期は未定にもかかわらず、早くもオーダーが入り出したのです。

そうなると次は市販化となりますが、海外での評価など意に介さない運輸省(現・国土交通省)から門前払いされて嫌気がさしたのか、アメリカで型式認定を取得して販売すればいいとばかりに同地での保安基準を満たす童夢 P-2の開発に着手します。

その一方、1台限りの製作に終わった零は玩具メーカーなどからプラモやラジコン、スーパーカー消しゴムなどの商品化の引き合いが殺到。

その版権で童夢は大いに潤い、玩具メーカーは次の商品でもヒット間違いなしとして次回作の製作を持ちかけますが、それに対し「金があるなら次はレースだ!」とばかりに、童夢はレーシングカーコンストラクターに回帰してしまうのです。

そしてアメリカで公道テストやショーへの出展まで進んでいた零のアメリカ市販型P-2は試作車2台で打ち切られ、それっきりになってしまいました。

 

零からZEROへ。ル・マン24時間レースへの挑戦

 

1979年のル・マン24時間レースに参戦した、童夢 ZERO RL  / 出典:http://dome-museum.com/012_dome_zero_rl.html

 

一度はあきらめたレーシングコンストラクターへの道に復帰した童夢が目指したのは、ル・マン24時間レースでした。

しかし、版権で儲けた資金があるとはいえ、本格的な性能と耐久性を持つレーシングカー製作にはほど遠いのもまた事実。

そこで、とにかくデザインがカッコ良くて性能はストレート重視の直線番長、良く言えば一芸に秀でていて見栄えの良いマシン、童夢 ZERO RLを開発し、1979年の第47回ル・マン24時間レースに出場します。

とはいえ零との共通点は名前だけで、それも”零”から”ZERO”へと変わり、純レーシングカーということでエンジンも国産にこだわらず、ターボ登場以前のF1用定番エンジンだったフォード・コスワースDFVを搭載していました。

肩慣らしに出場したシルバーストン6時間レースではトラブルを抱えつつも12位で完走して幸先の良いスタートを切り、本番のル・マンでも出場した2台共、予選を通過します。

決勝では1台が序盤に総合5位で走ってインパクトを与えたものの、結局はオーバーヒートや電気系トラブルにより、5時間の時点で2台ともリタイヤ。

もっとも、デザインはともかく中古部品の寄せ集めで車重超過、剛性不足のマシンが24時間走りきれる見込みは最初から無く、そこまで走れただけでも大したもので、バラバラになる前にリタイヤしたのはむしろ幸いだったかもしれません。

しかし、このZERO RLを契機に翌年のRL-80など童夢によるル・マン連続参戦が続くようになり、健闘していくうちにスポンサーもつくようになったので、そのキッカケとなる版権を生み出したという意味で、零は童夢にとって意義のある車となったのです。

 

童夢 零のスペック

 

童夢 零  / Photo by German Medeot

 

童夢 零(1978年)

全長×全幅×全高(mm):3,980×1,770×980

ホイールベース(mm):2,400

車両重量(kg):920

エンジン仕様・型式:日産L28 水冷直列6気筒SOHC12バルブ

総排気量(cc):2,753cc

最高出力:145ps/5,200rpm(グロス値)

最大トルク:23.0kgm/4,000rpm(同上)

トランスミッション:5MT

駆動方式:MR

 

まとめ

 

童夢 零  / Photo by contri

 

童夢 零は、それ自体に限って言えばただ1台製作されたに過ぎません。

日本での市販が許されないならと2台作られたアメリカ版P-2も含め、公道テストも行い市販も目指しましたが、結局は市販されなかった幻のショーモデルです。

しかし、日本のレーシングコンストラクターが結集し、奥方に逃げられるほど総力を上げて開発した結果、ともかくカッコいいスーパーカーができたことは紛れもない事実。

スーパーカーブームも幸いした版権収入で童夢は大いに潤い、『実車の市販化を断念したにも関わらず、商業的に成功したスーパーカー』として、現在まで続くレーシングカーコンストラクター、童夢の基礎を築いたという意味で、日本自動車史にその名を残しました。

どれだけモーターショーで注目を集めてもそれっきりで終わってしまい、後世に「こんな車も昔はあった。」とちらりと紹介される程度のショーモデルも多い中で、零はひときわ輝く『幻のスーパーカーの星』と言えるでしょう。

零の主要開発スタッフの1人、由良 拓也のムーンクラフト 紫電のように、現在の技術でリメイクしたら今でも人気が再燃しそうな1台です。

 

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