ポルシェ・ワークスでの活躍

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F2での活躍に注目したポルシェ・ワークスチームからスカウトされ、83年第2戦からWECへの参戦を開始。

デレック・ベルとパートナーを組み、デビュー戦のシルバーストンで優勝。その後は2勝を挙げシーズンを終えます。

注目は、出走した7戦のうち実に5戦でファステストラップを記録している点でしょう。既にここ一番の速さでは、誰も敵うものはいなかったのです。

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無邪気に笑うベロフ。世が世なら、日本の女性ファンをキャーキャー言わせたに違いない。出典:http://www.freeslotter.de/

一方でベルに戦術面で助けられた部分も多く、耐久レースを戦う意味では荒削りなシーズンだったと言えます。

やや無謀で元気が良すぎるベロフでしたが、実は屈託のないキャラクターの持ち主であり、いつも周囲には笑顔が絶えませんでした。

決して利己的なドライバーではなく、むしろ「楽しませてやろう」というサービス精神で多少の無茶をする“ロック・スター”のようなところがあったと言えます。

ちなみに翌84年シーズンは安定感も身につけ、10戦中6勝を果たして見事シリーズ・チャンピオンに輝きました。

 

隠れた”モナコ・マイスター”

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雨のモナコを駆け抜けるベロフのマシン「ティレル012」。出典:https://gforcef1.files.wordpress.com/

84年シーズン、WEC参戦と同時に「ティレル」からのF1フル参戦がついに実現。

しかし当時のティレルは、ターボ主流の中でNAエンジンでの参戦が続いており、200馬力に迫る大きなハンディを背負っていました。

そんな中、ベロフはニュルブルクリンクでのコースレコードに次ぐ”もう一つの伝説”を、世界有数の難コースとして知られるモンテカルロ市街地コースで成し遂げます。

この年のモナコグランプリは、大雨の中トールマン・ハートを駆るアイルトン・セナがマクラーレンのアラン・プロストを追い回し、2位を記録したレースとして知られています。

悪天候を理由にわずか31周で打ち切られ、あと1周していれば完全にセナが勝っていたレースでした。

そんな初の”セナ・プロ対決”の影で3位表彰台に上っていたのが、実はベロフだったのです。

 

最後列の20番手スタートから、最も非力なティレル・012を果敢にドライブしポジションアップ。

フェラーリを駆るルネ・アルヌーをバトルの末にオーバーテイクし、なんと3位にまで浮上します。

中止の赤旗&チェッカーが出される瞬間まで、プロストめがけて猛追するセナより、更に速いペースで迫っていたのです。

仮に3台が同じペースで78周を走り切ったと仮定すると、僅差でベロフが優勝していた…とすら言われており、結果を除けばセナに勝る衝撃の走りでした。

出典:http://www.taringa.net/jpg

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ところがこの年のティレルは重大な車両規定違反を犯しており、そのことがシーズン後に発覚。なんと全戦のリザルトを抹消されてしまいます。

これによりベロフの”モナコ3位表彰台”も幻となります。しかし彼の見せた速さは、紛れもない”本物”でした。

 

エンツォを魅了したベロフ

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晩年のエンツォ。彼に見染められたレーサーは歴史上数少ない。出典:http://www.adrenaline24h.com/

モナコでの走りを見て、すぐさま獲得に動いたのは名門スクーデリア・フェラーリを率いる巨匠、エンツォ・フェラーリでした。

彼が認めたレーサーは、その生涯の中で2人しかいないと言われています。

「ドリフト」を発明した男として知られるタツィオ・ヌヴォラーリ、そして無冠の帝王ジル・ビルヌーヴ。いずれも恐れを知らない速さを持った、正真正銘のレーサーでした。

ベロフはまさに、エンツォ好みのレーサーだったと言えるでしょう。その隠居の身を奮い立たせるほどの走りを見せつけ、「F1界の教皇」までもを虜にしてしまったのです。

85年シーズンはティレルとの契約が残っていたものの、翌シーズンのフェラーリ入りは決まっていた様です。

しかし、それは悲しい事故によってまたも”幻”に消えてしまいます。

 

さらなる活躍が期待された中、オー・ルージュで悲劇が起きる

85年、彼はこのポルシェとともに逝ってしまった。出典:http://www.lemans-models.nl/

「F1への集中」を理由にポルシェ・ワークスとの契約を解消、85年のWECにはカスタマー・チームである「ブルン」から出走したベロフ。

運命の時はスパ・フランコルシャン1000kmレースの77周目に訪れてしまいます。

1位を走るポルシェ・ワークスのジャッキー・イクスを猛追していたベロフは、時速300kmに迫るスピードで「オー・ルージュ」にさしかかっていました。

ここはオーバーテイク不可能な名物コーナーとして知られ、アクセル全開で一気に数十mの丘を駆け上がる難所中の難所です。

ベロフはあろうことか、その場所でイクスを抜きにかかろうとしたのです。

2台の事故状況。手前の右コーナーでアウトから並び、次の左でインを差したところで接触してしまった。出典:http://www.joker.si/

2台の事故状況。手前の右コーナーでアウトから並び、次の左でインを差したところで接触してしまった。出典:http://www.joker.si/

しかし案の定、接触した2台はコースオフ。さらにイクスのマシンに潰されるような形で、ベロフはウォールに正面から激突。マシンはモノコックがへの字に曲がるほど大破してしまいます。

ウォールに激突する寸前、接触した瞬間の2台。出典:http://www.garage111.com/

ウォールに激突する寸前、接触した瞬間の2台。出典:http://www.garage111.com/

コース脇にクラッシュしたイクスはすぐさま駆け寄りますが、ベロフはほぼ即死の状態だったといいます。

レースはもちろん、即中断。

実は2年前、ベロフは同じ場所でマシンを大破させるクラッシュを演じていました。

それにも関わらず、彼は余りにも果敢に攻めたのです。

 

おそらくあの最後の瞬間、ステファンは笑っていたと思う。みんなが注目しているあの場所、あの瞬間、誰もがやらない方法で抜くことができたら、どんなにウケるだろうか、とね。奴はいつだって、そうだったんだ。

『ステファン・ベロフの友人談 Racing on Archives Vol.10 96ページより抜粋』

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F1界きっての”ロック・スター”の死は、まさに悲劇でした。その人柄もあり、誰もが悲しみに暮れたといいます。

しかし、ベロフ自身がその瞬間に悔いを残してはいないとしたら、それが唯一の救いかもしれません。

 

まとめ

出典:https://poeticsofspeed.com/

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ステファン・ベロフは、正に「速過ぎた男」でした。

そのサービス精神、過剰なまでの勇気。「結果は目に見えていた」という人々すら存在します。

しかし、彼がオー・ルージュで亡くなることがなければ、もう少しの経験さえ積んでいれば、私たちはミハエル・シューマッハではない「初のドイツ人・F1ワールドチャンピオン」を見ていたはずです。

屈託のない笑顔で愛され、スリリングなレースで魅了し、アイルトン・セナの真のライバルとして、ファンの間で人気を二分していた…かもしれません。

孤高の天才・セナと、恐れを知らずいつも明るい男・ベロフ。まるで少年マンガのような、面白い対決ではないでしょうか。

きっと、もう一人の「音速の貴公子」と呼ばれていたかもしれませんね。

 

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