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フェラーリF1で活躍した“青い瞳のサムライ”『ジャン・アレジ』

フェラーリF1のエースといえば、ニキ・ラウダ、ジル・ビルヌーブ、ミハエル・シューマッハなどを思い出す人も多いはず。しかし、真っ先に「ジャン・アレジ」の名を口にする人も多いでしょう。女優・後藤久美子さんの旦那さんとしても知られていますが、F1では通算出走202戦のうち優勝はたった1回。それでも多くのファンを魅了し、今も大人気です。その理由とは?彼のレース人生とともに振り返ってみました。

©︎Tomohiro Yoshita

 

世界を驚かせたアイルトン・セナとの市街地バトル

©︎鈴鹿サーキット

17歳の時にカートレースを始めると、そこから瞬く間にステップアップしたアレジ。1987年にはフランスF3でチャンピオンにあなると、1989年には国際F3000で活躍。そのままティレルのシートを勝ち取り、F1デビューを果たしました。

ルーキーイヤーから、存在感のある走りを見せていましたが、世界中が注目し“ジャン・アレジはすごい”と思わせたのが、1990年アメリカGP。フェニックスの市街地コースで、その年のチャンピオンとなるアイルトン・セナと一進一退の攻防を繰り広げました。

©︎鈴鹿サーキット

2年連続でコンストラクターズタイトルを獲得し、最強を誇っていたマクラーレン・ホンダに対し、当時のティレル・フォードは中堅チーム。マシン性能、エンジンパワーともに劣っていましたが、アレジはそんなことなどお構いない。セナに負けまいと必死に食らいつき、何度か前に出るシーンも見せました。

最終的に競り負け2位フィニッシュとなりましたが、自身初のF1表彰台。そして、注目度も一気に上がって行きました。

 

名門フェラーリのエースへ

©︎鈴鹿サーキット

ティレルでの活躍に目をつけたのが、名門フェラーリ。デビューから3年足らずでトップチームへの移籍を果たします。

1991年の開幕戦アメリカGPでは、前年ここで戦ったセナと、予選から大バトルを展開。一時はトップに躍り出ますが、すぐにセナが逆転。そのタイムを更新するべく気合を入れてタイムアタックに臨みますが、タイヤバリアにマシン後部をひっかけてしまいクラッシュ。気合いが空回りしてしまいました。

それでも、特有のアグレシッブな走りは健在で、第4戦モナコと第9戦イギリス、さらに第13戦ポルトガルで3位表彰台を獲得。

シーズンランキングは僚友アラン・プロストに一歩及ばず7位でしたが、シーズン終盤にチーム批判を続けていたプロストが解雇。デビュー4年目で早くもフェラーリのエースを任されることになりました。

©︎鈴鹿サーキット

しかし、ここからフェラーリは苦戦しだし、なかなか勝てない不遇の時代に突入。1992年のF92Aはマシンが操縦性が悪くタイヤへの負担が大きいなど、課題も様々。それでもアレジは自身のテクニックで上位進出を目指し、特に第4戦スペインでは3位表彰台を獲得。その後、第7戦カナダでも3位を手にしました。

 

近くて遠い初優勝

©︎鈴鹿サーキット

1994年、不振が続いていたフェラーリに復活の兆しが見え始めます。シーズン序盤はテスト中の怪我で2戦欠場するが前半8戦(うち6回出走)で3回の表彰台を獲得。第9戦ドイツGPでは僚友のゲルハルト・ベルガーが勝利し、チームも勢いに乗ります。

そして第12戦イタリアGPで、デビュー6年目にして初の予選ポールポジションを獲得。これには地元フェラーリを応援するファン「ティフォシ」も大興奮しました。

迎えた決勝日。いよいよアレジの初優勝がみられると、スタンドには多くのファンがつめかけ、その声援に応えるようにアレジも序盤から後続を引き離す力強い走りを見せました。

しかし、レース中盤のピットストップでギアボックストラブルに見舞われ再スタートできず。

優勝への可能性が潰えてしまい、怒りをあらわにしながらマシンを降りると、そのままピットガレージに帰っていきました。

この後も、重要な場面でトラブルに見舞われ、勝利のチャンスを逃すレースが続きました。

©︎鈴鹿サーキット

1995年モナコGP。彼が初優勝する一つ前のレースですが、実はここでも“不運続き”でした。

狭いモンテカルロ市街地コースで勝つためには、まず予選ポールポジションを獲得することが重要な要素となります。

その中でアレジは1日目から素晴らしい走りを見せ、ミハエル・シューマッハ、デーモン・ヒルといったライバルを抑えトップタイムを記録。このポジションを2日目も維持できれば、自身2度目のポールポジション獲得となるはずでした。

ところが2日目のセッション開始早々、またしてもトラブルに見舞われストップ。しかし、当時はチームメイトのマシンを借りて予選を出走することが認められていたため、僚友ベルガーのタイムアタック終了を待ってアレジが、そのマシンに乗り込むスケジュールでチームは対応しました。

その間に、ライバルたちは次々と彼のタイムを上回り、気がつけが5番手に転落。またベルガーと身長差もあったため、ペダル位置などの調整にも時間がかかり、セッション残り2分というところでやっとピットアウト。わずか1周のみのアタックに向かいました。

その走りは、まさに「怒り」が伝わってくるほど荒々しいもの。結局タイムは伸びず5番手のまま。決勝でも序盤からアクシデントに見舞われるなど不運続きで、結局リタイアに終わってしまいました。

 

全てが噛み合った、参戦92戦目での初優勝

©︎鈴鹿サーキット

これでもかというほど不運に見舞われ続けてきたアレジですが、ついに歓喜の瞬間が訪れます。

モナコGP直後に行われた第6戦カナダGP。予選5番手からのスタートでしたが、着実に順位を上げ、さらにシューマッハ、ヒルなどライバル勢はトラブルやアクシデントに見舞われ脱落。

一方のアレジは、周りの混乱をよそに順調に走り続けます。

これまでの不運が嘘のように全てがうまくようなレース展開となり、優勝。

F1参戦92戦(決勝出走91戦目)。当時の記録としてはデビューから2番目に遅いF1初優勝となりました。

奇しくも、この日は6月11日。アレジの誕生日でした。ちょうど結婚を発表した女優の後藤久美子さんも現地にきており、彼にとっては最高の1日となりました。

フェラーリは、1995年末に大幅なドライバー変更を実施。アレジもチームを離れ、その後はベネトン、ザウバー、プロストGP、ジョーダンと転々としました。

F1キャリア後半も、ここでは紹介しきれないほどの名勝負を繰り広げてくれたアレジ。2001年の最終戦日本GP直前に引退を発表。多くのファンに惜しまれながらのF1を去って行きました。

©︎Tomohiro Yoshita

常に限界を超える走りを見せてくれたジャン・アレジですが、彼には多くの人から慕われる理由がさらにありました。果たして、その理由とは?さらに後藤久美子さんの間に生まれたジュリアーノ・アレジも次のページで登場!

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Writer Introduction
Tomohiro Yoshita

フリーのモータースポーツジャーナリスト。サーキット取材は2011年からスタートし、最近ではSUPER GTスーパーフォーミュラを全戦取材。この他にもF1をはじめとする海外レースや、2輪レースもカバー。レースに関する記事だけでなく、サーキットに来場するファンに役立つ情報発信も展開しています。http://www.kansenzyuku.com

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