数多くの名ドライバーを輩出する北欧の国々ですが、その中でスウェーデン出身のF-1ドライバーは意外に少なく、現在ではマーカス・エリクソンだけ。しかし、そのエリクソンの大先輩に、かつて「スーパー・スウェード」、「サイドウェイ・ロニー」とも呼ばれた70年代最速のドライバー「ロニー・ピーターソン」という天才ドライバーが活躍していました。今回は、ダイナミックな走りとマシンを自由自在に操りつつ驚異的な速さを誇った彼の足跡をたどってみたいと思います。
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ヨーロッパF-2チャンピオン獲得、そして鮮烈のF-1デビュー
マーチ711(ドライバーはA・デ・アダミッチ)
ロニーは1968年、1969年にスウェーデンF-3を制覇すると、F -1では新興コンストラクターのマーチの目に留まり、1970年にF2に参戦、そしてF-1へもマーチでデビューを果たします。
翌1971年にはヨーロッパF-2チャンピオンを獲得。F-1では5度の表彰台獲得する活躍でシーズン総合2位となり、当時のF-1屈指の速さを持つドライバーという評価を得ました。ちなみにこの時のチャンピオンはジャッキー・スチュワートでした。
ロータスで初優勝、フィッティパルディを脅かす存在に
1972年はマシンの不調により3位表彰台1回のみと低迷するものの、1973年には、ロータスに移籍して才能を開花。フランスGPでは初優勝をはたします。
その後も、当時のエースドライバーのエマーソン・フィッティパルディを凌ぐ速さをみせ、ポールポジション9回・優勝4回を獲得しますが、惜しくもシリーズ3位となります。
このピーターソンの好成績により、フィッティパルディはチャンピオンを取り損ね、マクラーレンへ移籍することになりました。
1974年はロータスのエースドライバーになりますが、肝入りのロータス76が失敗作に終わり、この年は3勝、シリーズ5位。翌1975年は13位と、マシンに恵まれない時期が続いたのでした。
運命のロータス再加入
マーチ761(ドライバーはハンス・スタック)
ロータス→マーチ→ティレル→ロータス、毎年チームを変わるピーターソン
ティレルP34
そして、1976年には開幕戦後にチームを離れてマーチに復帰することになりますが、その後ロータスは復調し、ピーターソンはマーチで1勝に終わったのです。
翌1977年にはティレルへ移籍し、1978年に再びロータスへ加入するという混迷期に入り、ピーターソンは最良のチームとマシンとの出会いを模索し続けます。
最良のマシンロータス79、アンドレッティの陰で我慢するピーターソン
ロータス79
ロータス79は、初のグランドエフェクトカーとして素晴らしい性能を見せますが、 チームはアンドレッティのチャンピオン獲得を第一目標としていました。
アンドレッティにはマシンの優先権や予選用スペシャルタイヤが与えられ、4度のワンツーフィニッシュはいずれも優勝アンドレッティ、2位ピーターソンという結果となったのです。
しかし、ピーターソンはチームオーダーに従い、アンドレッティがリタイヤするなどしたレースでは常に優勝してランキング2位に付け、シーズン終盤までチャンピオン争いを展開しました。
実はすでに翌年マクラーレンへの移籍が決まっていたと言われており、勝負をかける計画だったとされています。
そして残り3戦となり、アンドレッティから12点差で迎えたイタリアGPを戦う事になるのです。
スーパースウェードの最後
決勝日午前中のウォームアップ時に、ロータス79をクラッシュさせてしまったピーターソンは、スペアの旧型ロータス78に乗り換えました。
しかし、この時から悪夢へのカウントダウンが始まります。
もし、新型の79でスタート出来ていたら…。
誰もがそう思ったのではないでしょうか。
ロータス78炎上!しかし、救出されたピーターソン
事故原因については、様々な憶測が飛びましたが、全車が停止する前にスターターがスタートランプを点灯させたため、勢いがついたままスタートしたことが原因とされています。
その結果、後方集団がパトレーゼを押し出し、ハントとピーターソンに接触するという多重クラッシュに巻き込まれたことによりピーターソンのロータス78は炎上してしまったのです。
ピーターソンは両脚に重度の骨折を負ってしまいますが、救出された直後も会話ができる状態であり、最悪の事態だけは避けられたと誰もが思いました。
突然召されたスーパースウェード
幸い手術も無事に終わり、命に別状はないとされ、駆けつけていたチームメイトのアンドレティや、ロータスのコーリン・チャップマンも安心して病院を出たそうです。
容態が急変したのは11日未明。骨折した部位から血管に流れ出た脂肪粒が、脳や臓器の血管に詰まる脂肪塞栓症が原因で、34歳という若さで帰らぬ人となったのです。
このピーターソンの死によりアンドレッティのチャンピオンが決定!そして、ピーターソン最後のドライバーズランキングは2位となりました。
まとめ
ラリーなどで優秀な成績を納めていた北欧系のドライバーが、F-1でもその速さを認めさせるきっかけをつくったのもピーターソンでした。
「サイドウェイ・ロニー」と呼ばれたカウンターステアを多用する走りは、豪快な見た目と極めて微妙で滑らかなアクセルワークと、ステアリングコントロールによって行われたのです。
ジル・ビルヌーヴなど、ピーターソンの華麗な走りに憧れたドライバーは多く、ミケーレ・アルボレートはヘルメットをピーターソンと同じ配色にしていました。
黄色いひさしとパーソナルスポンサーである「Polarvagnen」の白熊のロゴマークがアクセントになっていた、青いヘルメットがトレードマークのロニーピーターソン。
彼のF-1における9年間の生涯成績は、優勝10回、ドライバーズランキングは2位が3回、3位1回。
「スーパー・スウェード」、「サイドウェイ・ロニー」、という数々の呼び名が示す通り、記録より記憶に残るレーサー、それがロニーピーターソンでした。
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