ブラジル出身のレーシングドライバーで、F1とCART(現在のインディーカー)の両方でチャンピオンになった”エマーソン・フィッティパルディ”です。現在様々なカテゴリーで活躍する、ブラジル出身ドライバーの先駆者であり、彼の活躍無くしてはその後のピケやセナも現れなかったかも知れません。今回はそんな偉大なドライバー、”エマーソン・フィッティパルディ”の足跡をたどってみたいと思います。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/エマーソン・フィッティパルディ#/

ロータスからF-1デビューそしてチャンピオンへ

ブランズハッチでのF3 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/エマーソン・フィッティパルディ#/

エマーソン・フィッティパルディは1969年に単身イギリスに渡り、フォーミュラ・フォードやF3で頭角をあらわします。

翌1970年にはロータスのF2チームに抜擢され、結果は出せませんでしたが、シーズン途中にロータスF1チームのNo.3ドライバーとして加入する事になり、イギリスGPでF1デビューを果たすという幸運に恵まれます。

 

第3の男からNo.1へ

ロータス72C 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/エマーソン・フィッティパルディ#/

F1デビュー後、想定外の出来事がフィッティパルディに大きなチャンスをもたらします。

それはイタリアGPが開催されたモンツァでロータスのNo.1ドライバーであり、この年のチャンピオンにもなったヨッヘン・リントの事故死と、No.2のジョン・マイルスの引退。

そんな悲しい偶然が重なり、皮肉にもNo.1ドライバーに大抜擢されたのです。

そして、直後に行われたアメリカGPでその期待に答え初優勝を獲得!

これはキャリア4戦目の快挙であると共に、ブラジル人ドライバーのF1初優勝でもありました。

 

史上最年少のチャンピオン誕生

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ロータス・72#/

フィッティパルディが初めてF1にフル参戦した1971年は、残念ながら未勝利に終わり、ドライバーランキング6位となりました。

しかし、翌1972年はボディカラーもJPSカラーになったロータス72Dで、12レース中5勝を獲得。

ジャッキー・スチュワートを押さえて初のタイトルを獲得します。

25歳273日でのワールドチャンピオンは当時の最年少記録となり、母国ブラジルではこの快挙を記念して記念切手が作られるなど、ブラジルの英雄となりました。

さらに1973年シーズンの初戦、地元ブラジルGPで優勝したことで国民の熱狂はピークに達することになります。

この年、序盤戦は3勝と好調でしたが、シーズン途中に投入された72Eの調子が上がらず、さらに終盤のイタリアGPではチャンピオンの可能性を残すフィッティパルディのためにチームオーダーが発動されず、チームメイトのロニー・ピーターソンが優勝してしまいます。

そのためスチュワートの連覇に破れランキング2位に終わったことで、チームオーナーのコーリン・チャップマンに不信感を抱いたフィッティパルディはマクラーレンへの移籍を決意しました。

 

2度目のチャンピオンを獲得したマクラーレン時代

マクラーレンM23 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/エマーソン・フィッティパルディ#/

1974年は当時最強のマクラーレンM23でブラジルGPの連覇を含めて3勝、2位・3位それぞれ2回ずつという安定した成績を残します。

そして4人のドライバーがチャンピオンの可能性を残す中、挑んだ最終戦を制し2度目のタイトルを獲得しました。

しかし、翌1975年は2勝したものの、ニキ・ラウダについで2位に終わってしまいす。

結局最強を誇ったマクラーレンには2年しか在籍せず、その理由は母国の英雄ゆえのブラジルチームの設立にあったのです。

 

ファミリーチーム、コパスカーの立ち上げ

コパスカー 出典:https://pt.wikipedia.org/wiki/Fittipaldi_FD04

1976年になるとブラジルの国営会社コパスカーから全面的サポートを受け、兄のウィルソンと共に立ち上げた、コパスカー・フィッティパルディに、ドライバーとしても移籍しますが、優勝争いに絡むまでには至りませんでした。

 

F-1からの引退

Photo by Marcin Wichary

そしてフィッティパルディは1980年シーズンを最後に引退を決意。

ドライバーズタイトル2回、優勝14回という成績を残して、10年間戦ったF1でのキャリアを終えることになります。

若くしてチャンピオンに輝いたフィッティパルディですが、円熟期に入ったF1でのキャリアの後半をファミリーチームのために費やしたことにより、3度目のチャンピオンは叶いませんでした。

 

ブラジルの英雄、もうひとつのキャリアCART時代

1994年インディ500 出典:http://www.wikiwand.com/es/500_Millas_de_Indian%C3%A1polis

その後、ブラジルで果樹園と自動車アクセサリー事業を営んでいたフィッティパルディですが、F1を引退して4年後の1984年、38歳にして現役へ復帰し、今度はアメリカのCARTシリーズに挑戦の舞台を移すのです。

 

F-1とCART2つチャンピオンを獲得

1994年インディ500 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3500

参戦初年に2つのチームに所属した後、パトリック・レーシングに移籍します。

そして翌1985年のミシガン500でCART初勝利を記録し、1986年には1勝、1987年と1988年はそれぞれ2勝を挙げ、F1時代とかわらぬ安定した完走率を示すのです。

その後CARTに挑戦して6年目の1989年には5勝をあげ、全てのレースを5位以内で完走することによって、フィッティパルディはCARTシリーズ初の、アメリカ人以外のチャンピオンに輝きました。

 

2度のインディ500制覇と2度目の引退

F1とCARTという2つのトップカテゴリを制したのはマリオ・アンドレッティに続き2人目の快挙でした。

そしてインディ500では200周のうち158周をリードし、2位以下に2周差をつけて伝統のイベントを初制覇したのです。

また、1990年からペンスキーに移籍し、1993年と1994年には2年連続ラキング2位になるなど、その後も安定した好成績を保ち、1993年には2度目のインディ500の優勝を果たすのです。

そんな、順風満帆かのように見えた、フッティパルディのレース活動でしたが、1996年のミシガン500出場中に大クラッシュ!首を負傷しまった事に加え、自家用機の墜落事故での負傷という不幸が重なります。

そして、50歳近くまで現役ドライバーとして一線で活躍したフィッティパルディは、遂に現役引退を決意したのでした。

 

まとめ

その後フィッティパルディに憧れ、ブラジルから世界に挑戦する若者たちが続々と現われています。

そして、ネルソン・ピケやアイルトン・セナといったF1チャンピオン、CARTでも、ジル・ド・フェラン、クリスチアーノ・ダ・マッタ、トニー・カナーンというチャンピオンを輩出することになりました。

また、実兄ウィルソンもF1まで進出した他、甥のクリスチャンもF1とCARTのレギュラードライバーとして1990年代から活躍しています。

そして孫のエンツォ・フィッティパルディが2016年12月25日にフェラーリ・ドライバー・アカデミーへ加入し、その兄のピエトロ・フィッティパルディはフォーミュラV8 3.5に参戦しているなど、一族の挑戦もまだまだ続いているのです。

 

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