人はなぜリスクを背負いながらもスポーツドライビングに挑むのかー。人の命を預かるクルマを作る時、モータースポーツは「人とクルマを鍛える」為に重要な役割を果たします。トヨタ自動車で数多くのスポーツカー開発に携わった”伝説のテストドライバー”成瀬弘は、日本でその重要性を誰よりも信じ、実行した人物と言えるのではないでしょうか。現社長・豊田章男の”師匠”でもある彼の流儀は、現在のトヨタに大きな影響を残しています。今回はその足跡を辿っていきたいと思います。

©︎TOYOTA

成瀬弘とトヨタ、そしてモータースポーツとの出会い

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1963年、高度成長期と共に拡大を続けるトヨタ自動車の臨時工として採用された成瀬弘。

幼い頃からクルマに触れてきたという彼は異例の速さで頭角を現し、トヨタ社内でレースカーを開発していた「第7技術部」に配属されます。

「すべての機械というものは、理想通りに動くはずのものであるけれども、人間の考えた理屈というものは甚だ浅はかなもので、実際に動かして見ると我々が創造し得ないような結果になることも多々有る。どういう試練をして、それを知り改良するべきかというとオートレースをおいて他にはありえない。

豊田喜一郎の言葉 (Toyota Gazoo Racing公式サイトより抜粋)

 

創業者である豊田喜一郎がこう語った通り、当時のモータースポーツは自動車開発の最前線、まさにメーカーの威信をかけた争いが繰り広げられていました。

成瀬はトヨタ2000GTなどでのレース活動を開始し、60年代後半には打倒ニッサンに燃えたプロトタイプカー「トヨタ・7」のチーフメカニックとして活躍します。

©︎富士スピードウェイ

1969年の第2回 日本Can-Amではトヨタの次世代エース・川合稔のマシンを担当し、その総合優勝に貢献しました。

現代に比べれば未成熟で危険なマシンで、レーサーの命を背負う責任から、成瀬のメカニックとしての腕は更に磨かれていきます。

その後、排ガス規制やオイルショックの影響でトヨタのワークス活動は中止されますが、この時期に成瀬は海を渡りドイツ・ニュルブルクリンクに初めて赴く事になりました。

スイスのチームがセリカでレースに出ることになり、メカニックとして派遣されたのです。

 

次のページでは、ニュルブルクリンクと出会い、24時間レースへの挑戦。その軌跡を辿ります。