ロードレース世界選手権の2スト500cc時代を駆けぬけたヤマハ YZR500。NSR500やRGV-Γ500との熾烈な戦いを繰り広げ、多くのスターライダーを排出しました。また、YZR500はフォーミュラー750に準じたモンスターマシン YZR750や市販レーサーのTZ750/500といった派生モデルを生み出したマシンでもあり、多くのレーシングライダーにとって憧れの的になっていきます。そんなYZR500の歴史を紹介します。
掲載日:2019/12/10
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MotoGPで11度のタイトルを獲得したヤマハ・YZR500
ヤマハのワークスマシン YZR500は、MotoGPの最高峰クラスが500ccだったWGP時代、1973年に登場してから約30年にわたり、ホンダ NSR500やスズキ RGV-Γ500とトップを繰り広げました。
ヤマハは、メーカーの威信をかけてYZR500の開発を進め、開発コード『0W』(ゼロダブリュ|「オーダブリュ」とも呼ばれます)とし、1973年の『0W20』から2002年の最終型『0WL9』まで、28世代にわたりアップデートを繰り返します。
エンジンは、初代モデルが並列4気筒でしたが、次にスクエア4気筒、そして1981年にはGP500マシン初となるV型4気筒を搭載した0W61を投入。
1980年にケニー・ロバーツが乗っていた0W48は、初めてアルミフレームを採用。
2ストV型4気筒とアルミフレームの組み合わせはGP500マシンの標準仕様となるなど、YZR500はGPマシンの技術革新を牽引してきたマシンです。
無敵のMVアグスタへ挑戦!ヤマハ・YZR500の開発経緯
ヤマハは1960年代中盤から1970年代初めまで、125cc・250ccそれぞれのクラスで速さを見せつけ、既にシリーズタイトルの常連になっていました。
しかし、最高峰の500ccクラスはMVアグスタが、ジョン・サーティース、マイク・ヘイウッド、ジャコモ・アゴスチーニにより1958年から1974年まで17年連続でシリーズタイトルを獲得し続けていたのです。
日本メーカーは小排気量クラスを制圧できても、大排気量ではアメリカやヨーロッパメーカーに負けてしまう。
とはいえ、メーカーとしての販売数を全世界で伸ばすためには、最高峰クラスでも速いバイクが作れることを世界に示さなければなりません。
FIMは、レギュレーションを500ccクラスは最大で4気筒、変速機は最大6速と定めていたため、4ストロークの多気筒エンジンで参戦したホンダはWGPから撤退。
2スト4気筒エンジンを搭載したスズキ TR500やカワサキ H1Rも、MVアグスタの牙城を崩すことができないのが現状でした。
一方、ヤマハは125ccや250ccで2ストロークのチャンピオンマシンを開発できていたので、市販レーサーのTR/TDのエンジンを2個並べる発想で500cc並列4気筒エンジンを搭載したGPマシンを開発。
これが0W20型 初代YZR500です。
さらに、デイトナ200マイルに代表されるフォーミュラ750に出場できる、YZR750も開発しました。
乗ることをためらうモンスターマシン・YZR750
YZR500を語るうえで、欠かせないのはYZR750の存在です。
ヤマハは、アメリカ最大のモーターサイクルイベント『デイトナ200マイル』に、750ccマシン優勢のなか、350ccのTR-2プロトタイプで参戦を開始します。
そして1973年からデイトナ200以外にFIM主催のフォーミュラ750がスタートしたため、そのレギュレーションに沿って750ccのレーサーマシンの開発に着手。
そのときYZR500と並行して750ccの市販レーサーTZ750と、ワークスマシンのYZR750が生み出されます。
TZ750は、TZ350のエンジンを二基繋ぎ合わせることにより、700cc 2ストローク並列4気筒を開発。これをYZR500とほぼ同等のコンポーネントに搭載したのです。
そして1974年、デイトナ200マイルにヤマハワークスチームが出場。
ライダーはアゴスチーニとケニー・ロバーツが務め、マシンはTZ750のワークス仕様であるYZR750を投入。
二人はレースを完璧に支配し、YZR750のデビューをワンツーフィニッシュで飾りました。
1977年には700ccからフルスケールの750ccまで排気量をアップさせたフルモデルチェンジ版の0W31をデビューさせ、ヨーロッパや日本の鈴鹿8時間耐久レース、デイトナ200マイルで圧倒的な強さを見せつけます。
しかし、FIM主催だったF750世界選手権が1979年に終了し、YZR750やTZ750の活躍の舞台はデイトナ200マイルのみに。
このときのYZR750(0W46)は最高出力160馬力、最高速度300km/hを超え、当時のバイクの中では別格のパワーと速さを誇っていました。
あまりの速さからフロントタイヤがウイリーするのは当たり前、かつ直線で安定させるのも難しいとされていたため、多くのライダーがYZR750やTZ750に乗ることをためらったとか。
確実に乗りこなせたのは、ほんの一握りのライダーで、まさにモンスターマシンでした。
デビュー初戦でヤーノ・サーリネン氏がいきなりの優勝!
YZR500が世界最速マシンとなるのに、時間はかかりませんでした。
デビューした1973年、ライダーはヤーノ・サーリネンと全日本ロードレース選手権にヤマハワークスから参戦していた金谷秀夫でした。
この年もアゴスチーニ氏の独走を誰が止めるのか話題になるなか、サーリネン氏がデビューしたばかりのYZR500で予選トップタイムをマークしてポールポジション、続く決勝レースではファステストラップを続けざまに記録し、トップを独走。
金谷は4番手走行中、アゴスチーニの転倒により3位に浮上し、終わってみればサーリネンは2位から16秒の差をつけてぶっちぎりの優勝を獲得。金谷も3位表彰台を手にしました。
本当はWGP500ccクラスのタイトルを金谷氏が取れていた!?
金谷は、22歳だった1967年にWGP125ccクラスに参戦してシリーズ3位に輝き、1969年に全日本250ccクラスでチャンピオンを獲得。
このときから、全日本で敵なしと言われるほどのテクニックをもつライダーでした。
当時はカワサキの契約ライダーでしたが、1970年にヤマハワークス入りを果たし、WGP250ccクラス初参戦の1972年は初戦でいきなりの優勝を獲得しています。
多重事故によるサーリネンの死
1973年にヤマハワークスからWGPに参戦した際は500ccと250ccクラスに出場し、初戦フランス戦で500ccクラス3位のほか、250ccでは2位を獲得。
その後のオーストリアGPでは500ccクラス2位・250ccクラス2位、第3戦ドイツGPでは250ccクラスで2位を獲得するも、第4戦のイタリアGPで多重衝突事故に巻き込まれ負傷。
さらにその時に一緒に事故に巻き込まれたチームメイトのサーリネンが不運にも死亡してしまい、サーリネンをしたっていた金谷氏は精神的なダメージと喪に服す意味で、後半戦は出場せず参戦途中で日本へ帰国することになります。
日本人初の500cc/350cc優勝!しかしセカンドライダーとしての苦悩
1974年はWGPに参戦せず、全日本とデイトナ200マイルに参戦。
デイトナではモンスターマシンのYZR750に乗りますが大クラッシュによる負傷で、そのシーズンのレースに復帰することができませんでした。
翌1975年は、ヤマハへ移籍してきたアゴスチーニの傍らで、セカンドライダーとしてWGP500ccクラスと350ccクラスに参戦。
金谷はアゴスチーニと同等の速さでシリーズを戦い、5月に開催された第3戦オーストリアGPでは500ccと350ccの両レースで初優勝。ランキングトップとなります。
その後も第3戦ドイツGPで4位、第4戦イタリアGPで3位を獲得し、この時点でアゴスチーニと同点数のシリーズランキング1位につけていました。
セカンドライダーとしての苦悩
しかし、第4戦が終了した時点でWGPへの参戦を途中でやめ、日本へ帰国することになります。
このときジャーナリストに、「ポイント首位の金谷がなぜ帰るのか」と聞かれると、金谷は「勝つのはアゴ(アゴスチーニ)の仕事、俺には日本での(マシン開発の)仕事があるんや!」と言葉を残したそうです。
金谷氏日本へ帰国する際、ヤマハとアゴスチーニ、金谷の3者でどのようなやりとりがあったのかは明かされていませんが、もし金谷がフル参戦をし、セカンドライダーとしてのシバりがなければ、優勝していたかもしれません。
この年にアゴスチーニはシーズン中4度の優勝と2度の2位を獲得し、シリーズタイトルを手にします。
これはヤマハにとって初の500ccチャンピオンで、ここからYZR500の伝説が始まりました。
まとめ
アゴスチーニがタイトルを獲得して以降、ケニー・ロバーツやエディ・ローソン、ウェン・レイニーがYZR500でタイトルを獲得。
YZR500参戦最終年となる2002年までの期間、20名のライダーが115レースで優勝し、11回のライダーズタイトルと9回のコンストラクターズタイトルを手にしています。
日本人ライダーでは、スター選手の平忠彦が全日本選手権GP500を3年連続でチャンピオンで飾り、故・阿部典史は1996年のWGP第3戦で日本GP初の日本人ライダー優勝を果たしました。
このようにYZR500は、多くの名勝負を我々に見せてくれたドラマチックなGPマシンといえます。
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