クルマのスピードは、最高でどれぐらい出すことができるのでしょうか。日本の一般道では、時速40kmの制限速度がかかっているのことがほとんどです。しかし、大昔にクルマで異次元のスピードを出すべく、”最高速記録”に挑戦し続けた男がいました。その名は”ベルント・ローゼマイヤー”。彼は修理工場の手伝いから大手自動車メーカーのドライバーとなり、最高速記録にチャレンジを続けました。

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最高速記録に挑戦を続けた男”ローゼマイヤー”

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”時速400km”と聞いて、真っ先に何が思い浮かびますか。

日常生活では耳にしない数字かもしれません。

現在は、サーキットを走るレーシングカーや新幹線、飛行機で近い数値を実現できる時代になりつつありますが、今よりも技術が発達しておらず、戦時中であったおよそ80年前に、時速400kmの世界で戦っていた技術者やドライバーたちが存在していました。

そんな、最高速記録に挑み続けた男のひとりが、ベルント・ローゼマイヤーです。

町工場のメカニックから始まった”挑戦”

出典:https://www.audi-press.jp/

ベルント・ローゼマイヤーは、1909年10月14日にドイツの小さな町 リンゲンに生まれました。

父が自動車修理工場を営んでいた影響で、メカニックとして技術を習得。オートバイや自動車の整備士として、働くようになります。

そして21歳で初めて2輪レースに出走し、数年間活躍。実績を積んでいきました。

自動車メーカーのドライバーに抜てき

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町工場のメカニックとして働きつつ、レースに参戦していたローゼマイヤーは、その実力を認められ、「アウトウニオン(アウディの前身にあたる企業)」よりオファーを受けます。

そして、アウトユニオンが作り上げたレーシングカーで、ドイツ ニュルブルクリンクでのテスト走行を経験したのち、正式にドライバー契約を締結。ローゼマイヤーは、正式にアウトウニオンの一員となったのです。

その後、1934年5月にベルリンで行われたレースで初めてアウトウニオンのドライバーとして臨み、予選4番手をマーク。実力の片鱗を見せます。

さらに、1935年9月にブルノ(現・チェコの首都)でおこなわれたレースで初勝利。

1936年には、ドイツやぺスカラ、スイス、イタリアなどで開催された「ヒルクライム&レース選手権」で全戦優勝し、チャンピオンを獲得したのです。

町工場のメカニックから始まったローゼマイヤーのドライバー人生は、アウトウニオンに加入して一気に開花していきました。

最高速度記録にチャレンジも

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アウトウニオンに加入し、レースで好成績を残したローゼマイヤーは、次なるターゲットとして「最高速度記録」と呼ばれるクルマでの性能を測るチャレンジを行います。

そして1937年、アウトバーンで時速401kmの最高速度記録をマークし、公道では初めての時速400km超えを達成しました。

その後も、同じくレースで活躍をみせていたドライバーであるルドルフ・カラツィオラが記録したおよそ時速432kmの記録を破るべく、アウトウニオンが用意したマシンで挑戦。

しかし、記録挑戦中に時速430kmで走行していたクルマはアクシデントに見舞われクラッシュし、1938年1月28日に帰らぬ人となりました。

まとめ

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ドイツの大手自動車メーカー、VW(フォルクスワーゲン)グループの一員であるアウディ。

一時期”アウトウニオン”の名で存在し、ドイツの自動車業界発展に多大な貢献をしてきました。

会社初期の会長職を務めたアウグスト・ホルヒ、アウトウニオンの創設に貢献したユルゲン・シュカフテ・ラスムッセン、アウディのブランド力の強化に貢献し現代の発展につなげたフェルナンド・ビエヒ。

彼らと並んで歴史の1つを作ったドライバーが、ベルント・ローゼマイヤーなのです。

現代では、”ローゼマイヤー”の名前を得たスポーティコンセプトカーが作られるなど、今日のアウディでも重要な存在です。

最高速度記録に挑戦した男の”魂”は、今でもアウディのクルマに引き継がれているのです。