今年も鈴鹿サーキットでF1日本GPが10月7~9日に開催される。ここ数年は年間カレンダーの関係もあり、チャンピオン決定の舞台とはなりにくいが、同地での開催が始まった1980年代は毎年のようにチャンピオン決定の舞台となった。その多くが、今でも世界中のF1ファンに語り継がれているアイルトン・セナとアラン・プロストの2大ヒーローによる勝負。通常「セナプロ対決」として知られている。今回は鈴鹿サーキットでのF1日本GPで繰り広げられた名勝負を振り返って行く。
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1988年:エンストからの大逆転劇、セナが初のチャンピオンを鈴鹿で決める
2人が初めて直接対決をしたのは1988年。開幕戦から優勝争いを展開していき、ここ鈴鹿で決着を見ることになる。
予選でもポールポジションを獲得したセナが圧倒的に有利かと思われたが、スタートでまさかのエンジンストール。幸い鈴鹿はメインストレートが下り坂で、その蛇足を利用(押しがけで動かしているような状態を再現)して再スタートを切るが、20番手付近まで後退してしまった。
この一瞬で、プロスト有利という図式になり、セナは勝利を全く諦めておらず、驚異的な追い上げを開始。鈴鹿サーキットは比較的コース幅が狭く、当時のマシンも車幅2150mと大柄だったため、各コーナーで抜いていくのは至難の技だった。
しかしセナはそんなことなど関係ないと言わんばかりにコーナーごとで次々と前のマシンをオーバーテイク。ついに2番手まで浮上し、プロストの姿を捉える。そして折り返しの27周目。最終コーナーで背後につけると、メインストレートに入ったところでセナがイン側にマシンを振る。すかさずプロストもけん制に入り、ピットウォールすれすれの攻防戦となるが、セナはアクセルを緩めることなく1コーナーを先に飛び込み、ついにトップ奪還を果たした。
その後は完全にセナのペース。時より雨がパラつく難しいコンディションも味方し、トップのままでフィニッシュ。デビュー5年目、そして現役最強と言われていたプロストを打ち破っての初タイトルを手にした。
実は鈴鹿初開催となった1987年にも2位表彰台を獲得しているセナ。これを皮切りに日本でのセナ人気も上昇していくことになった。
1989年:2人の間に確執が、2度目の対決はシケインでの接触という結末に
翌年もマクラーレン・ホンダはセナとプロストのコンビ。この年も開幕戦から好調でチャンピオン争いを展開していくが、同じチーム内でのライバル対決は確執へと発展していってしまう。
この年はプロストがチャンピオンに王手をかけた状態へ鈴鹿へ。予選ではセナが当時のコースレコードとなる1分38秒041を叩き出しポールポジションを獲得。しかしスタートではプロストが抜群のダッシュをみせてトップを奪った。
前年とは異なり、序盤から気の抜けない2人の接近戦が展開。逆転チャンピオンのためには優勝が必要なセナは各コーナーでチャンスを見つけようとプレッシャーをかけていくが、相手は百戦錬磨のプロスト。全く隙を与えない走りで周回を重ねていった。
残り周回数も減る中、徐々に余裕がなくなっていくセナは、ついに勝負に出る。
47周目のシケインで意を決してインに飛び込み、追い抜きにかかるが、プロストは前に出させまいとブロック。両者は接触し2台が絡んだままシケインのコース脇に停車してしまった。
プロストは潔くマシンを降りるがセナは諦めずにマーシャルに再スタートの補助を要求。押しがけで何とかエンジンがかかりコースに復帰した。
しかし接触の影響でフロントウイングを破損。緊急ピットインで交換をしている間にアレッサンドロ・ナニーニが先行してしまう。残り5周もない状況だったが、セナは鬼神のような走りでナニーニを追いかけ残り2周で逆転。そのままトップでチェッカーを受けた。
これでチャンピオン争いは次の最終戦に持ち越しかと思われたが、そこから状況が一変する。
実はプロストと接触し、再スタートを切った際。セナはシケインを通過せず、タイヤバリアで封鎖されていた場所からコースに復帰。「正規のコースであるシケインを通過していなかった」として失格という裁定が下されたのだ。
これにより、プロストのチャンピオンが決定。しかし、あの状況下でシケイン不通過を問うのは無理があるのではないか?と後々物議を醸すものとなった。
1990年:スタートからわずか8秒、因縁の接触再び
前年の鈴鹿での接触で、2人の確執は修復不可能という状態になり、プロストはマクラーレンを離脱。フェラーリに移籍をする。
一方のセナはマクラーレンに残ったままとなり、この年はチームが別々になってのチャンピオン争いが展開。3年連続でチャンピオン決定の舞台は鈴鹿となった。
まずは公式予選から2人の争いが白熱。セナがピットを離れるとプロストもついて行って、2人同時でタイムアタックという白熱した展開に。結果、セナが1分36秒996をマークしポールポジション。プロストは0.2秒差で2番手に終わった。
注目の決勝日。サーキットには14万人の観客が集まり、2人の対決の行方を見ようとスタートの瞬間を見守った。
しかし、ファンの期待は一瞬にして、悲鳴に変わる。
スタートダッシュではプロストが有利。セナが背後につく形で1コーナーへ向かうが、セナが少し強引にインを突こうとして接触。2台のマシンは砂煙を巻き上げ1コーナー奥のタイヤバリアへ姿を消してしまった。
グリーンシグナルが点灯してから、わずか8秒。あまりにも早すぎる、そしてあっけない決着だった。
この結果、セナの2度目のチャンピオンが決定するが、2年連続で王座を争う2人が、鈴鹿での直接対決で接触して決まるという結末。後味の悪い形で終わってしまった。
1993年:0.1秒を削りあったセナプロ最後の鈴鹿対決
因縁の接触から3年。再び鈴鹿で2人の対決が見られる機会がやってきた。
1991年、フェラーリはマシン開発がうまくいかず低迷。プロストもチーム批判が相次ぎ同シーズン末にシートを失い、1992年は実質的に休養状態に。1993年には力をつけていたウィリアムズのシートを獲得。
一方のセナは1991年に3度目のチャンピオンを手にするが、1992年はウィリアムズ勢の快進撃に屈してしまう。さらに、ここまで彼の活躍を支えてきたホンダエンジンが活動休止を発表。1993年はマクラーレンに残留するも、パワー面で劣るフォードエンジンで苦戦を強いられていた。
この年は久しぶりにセナvsプロストのチャンピオン争いとなっていたが、すでに前戦のポルトガルGPで、プロストが4度目のチャンピオンを決定。実質的に日本GPは消化レースになるかと思われたが、両雄による最後の名勝負が繰り広げられた。
予選ではマシン・エンジン面でアドバンテージを持つプロストが先行するが、セナも肉薄。予選1回目では0.4秒差だったのを、2回目では0.1秒差まで詰め寄ってみせたが、ポールポジションは鈴鹿では初というプロストだった。
セナプロのフロントロー対決は4回目。実はここまで全てプロストがトップで1コーナーへ進入していく展開だったが、今回はセナが好ダッシュをみせて1コーナーを制した。
しかしピット戦略の関係でプロストが一時有利になるが、レース中盤に突然黒い雲がサーキット上空を覆い、大粒の雨が降り出す。一気に路面がウエットコンディションになると、セナが一気に差を縮めてプロストを逆転。ここからセナ有利の展開に変わっていった。
レース終盤には再び太陽が顔を出し、レース中にコンディションが目まぐるしく変わる展開となったが、セナが最後まで逃げ切り優勝。2位にはプロストが入り、久しぶりに2人がレースを完走して勝敗が決するものとなった。
まとめ
1993年を最後にプロストはF1引退。セナは翌年のサンマリノGPの事故で帰らぬ人となってしまった。
セナプロ対決は、どちらかというと接触した2つのレースばかり取り上げられがち。
しかし、実際には予選でポールポジションをかけた全身全霊のタイムアタック合戦など、本当に「しのぎを削る」戦いを鈴鹿では何度も見せてくれていたのだ。
今でも多くのファンに語り継がれている2人の対決だが、そこには自然と「鈴鹿」という舞台も一緒について回った。現在では年間カレンダーの関係上、チャンピオン決定の舞台となりにくくなったが、鈴鹿には他のコースにはない歴史と伝統、そしてドラマがたくさん詰まっている。
今年もチャンピオン決定の舞台とはならないが、どんな名勝負・対決が見られるのか。目が離せない。