1960年代後半。日本ではアメリカで行われていたモンスターマシンの競演「Can-Amシリーズ」が人気を博していました。これを受けて1969年、本国のドライバーとチームを招待し、「日本Can-Am」が初開催されます。そこで日本人は、見たこともないスピード・そしてパワーを見せつけられることになるのです。今回は初年度・1968年のレースを振り返ってみましょう。

そもそもCan-Amって何でしょう?

©︎富士スピードウェイ

「カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ」通称Can-Amシリーズは1966年にアメリカでスタートしました。

このレースの魅力は、何といっても「排気量無制限」という破天荒なルールです。

どれだけ速いマシンでも出走可能な為、トップチームに至っては7.0Lで600馬力オーバー…。日本では200馬力ほどのプロトタイプカーがトップカテゴリーだったことを考えると、想像を絶する世界が展開されていたのです。

最強を誇ったのはマクラーレン・ワークスチームで、それにジム・ホール率いるシャパラルが独創的マシンで挑む構図が人気を博しました。

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日本Can-Am開催へ

©︎富士スピードウェイ

当時の日本でCan-AmはF1より人気があり、「マクラーレン・エルバ」などのスロットカーは少年たちの憧れでした。

1968年に、そのCan-Amを日本で開催するという話が持ち上がります。

主催は1966年「日本インディ200マイルレース」を実現した 「日本オートクラブ」。当時オーガナイザーとして急発展を遂げていた組織でした。

サッカーのW杯にあやかり「ワールドチャレンジカップ富士200マイルレース」と名付けられたこのイベントは、本国からチーム・ドライバー・マシンを招き、日本勢と対決させるという「日本初の本格的国際レース」となったのです。

残念ながら、マクラーレンワークスとシャパラルはそれぞれ事情により欠場となりましたが、それでもシェルビー、ペンスキーなどトップコンストラクターが来日した他、ドライバー陣も豪華なラインナップでした。

次のページでは、いよいよ初開催を迎えた1968年のレースを振り返ります!