アスリートには地味でもコンスタントに記録を残したことで知られるコツコツタイプや、「大記録かそうでないか」という一発逆転タイプなど、色々なタイプが存在します。そして、ラリードライバーの世界で間違いなく後者の1人であるのがコリン・マクレー。特に若き日の「壊し屋マクレー」と言われたほどの走りは衝撃的で、結果を問わず多くの人の記憶に今でも残っているのです。
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コリン・マクレー プロフィール
名前:コリン・スティール・マクレー(Colin Steele McRae,MBE 大英帝国5等勲爵士)
生年月日:1968年8月5日
没年月日:2007年9月15日
出身地:イギリス(スコットランド)
多くの伝説的なドライバーが、「幼少の頃からまずは乗れる乗り物」でキャリアを始めたのと同様、少年時代のコリンが活躍したのはオートバイの世界でした。
14歳の時、スコットランドのモータークロス・トライアル選手権少年部門で優勝するなど活躍しますが、あくまで彼が深い興味を示したのは4輪車。
ジムカーナ競技に車庫入れなどの要素を取り入れた「オートテスト」という競技に16歳からミニクーパーで参加し、1年後にはヒルマン アベンジャーに乗り換えています。
初のラリー参戦は18歳となる1986年。
タルボット サンビームで参戦したスコットランドラリー選手権でした。
まだ無名だったコリンはサンビームの維持とラリー参戦のため、同じくラリードライバーだった父、ジミーマクレーの家業である配管業で、見習い工として生計を立てていましたが、その年のうちに頭角を現したマクレーは、1987年のスウェディッシュ・ラリーを皮切りにWRC(世界ラリー選手権)にも参戦するようになるのです。
WRCや英国ラリー選手権でいくらかの活躍を示した後、1991年にはプロドライブと契約。
その後の彼の運命に大きく関わる、スバル車と出会ったのでした。
コリン・マクレー:WRCでの優勝経歴
1993年:1勝(スバル レガシィ・ラリーニュージーランド)
1994年・2勝(スバル インプレッサ555・ラリーニュージーランド、RACラリー)
1995年・2勝(同上・ドライバーズタイトル獲得)
1996年・3勝(同・アクロポリスラリーなど)
1997年・5勝(スバル インプレッサWRC97・サファリラリーなど)
1998年・3勝(スバル インプレッサWRC98・ラリーオブポルトガルなど)
1999年・2勝(フォード フォーカスRS WRC99・サファリラリーなど)
2000年・2勝(フォード フォーカスRS WRC2000・ラリーオブカタルーニャなど)
2001年・3勝(フォード フォーカスRS WRC01・ラリーオブアルゼンチンなど)
2002年・2勝(フォード フォーカスRS WRC02・アクロポリスラリーなど)
WRC通算25勝
ドライバーズタイトル獲得1回
プロドライブとの契約でスバル・ラリーチーム・ヨーロッパのドライバーとなったコリンは、1991年、1992年と英国ラリー選手権に参戦し、1991年のRACを皮切りにWRCへも参戦。
1992年には同チームのベテランエースでレガシィRSの熟成に大きく貢献したマルク・アレンがトヨタに移籍したこともあり、アリ・バタネンと共にレギュラードライバーとなります。
ただし、とんでもない速さを見せたかと思えば次の瞬間には激しいクラッシュでリタイヤするなど衝撃的な展開を見せる事が多く、後に彼を有名にする、「マクラッシュ(壊し屋マクレー)」というあだ名ですでに呼ばれていました。
「とにかく他チームの前を走れ!」初勝利尽くしの1993年、ヴィヴィオで伝説の激走
1993年はプロドライブ体制下でのスバルとコリンのラリー活動において、初めての思い出深き年になりました。
スバルとプロドライブとのタッグで初めてWRCに本格参戦した初代レガシィRSで優勝という形で有終の美を飾らせ、新世代のインプレッサWRXへと更新する事を決めていたのです。
そのため何としてもレガシィRSでの優勝を決めたいところでしたが、その前に思わぬサプライズイベントがありました。
それは、前年に発売され、1993年2月にスポーツグレードRX-RAが追加されたスバルの軽自動車、ヴィヴィオによるサファリラリー参戦でした。
格好の宣伝の舞台とばかりにサファリに持ち込まれたヴィヴィオを、「とにかく完走を」というオーダーで、現在に残る登場シーンも多い黄色いマシンは地元ケニアのパトリック・ジルがドライブし、A5クラス優勝を果たします。
一方、青い555カラーに塗られたコリンには「とにかく前を走れ!」と結果を問わないオーダーが出されました。
そもそも「どんなペダルでも床まで踏む」が信条のコリンに、いくらラリー用モディファイが施されたグループAマシンとはいえ軽自動車で完走できるよう走れ!と言っても無理があったのか、ともかくコリンはオーダー通りの激走を見せます。
そのため一時はトップグループを走るトヨタワークスのセリカ勢に食い込む総合4位を走るという素晴らしい展開を見せ、大きく話題になりました。
もちろんその後にマシントラブルでリタイアしますが、「壊れるまではすごく速い、完走するように走ってもそこそこ速い」という、ヴィヴィオにとってはいい宣伝になったのです。
スバルにとってはエキシビジョンイベントと言えたサファリを終えると、再びレガシィでの勝利のためにコリンも奮闘します。
そして、第8戦ニュージーランドでついに優勝!
それはスバルにとって、レガシィにとって、そしてコリンにとってもWRCで初めての総合優勝という「初めて尽くし」となりました。
「優勝かクラッシュか」インプレッサを潰しまくった1994年
レガシィでの最初で最後の優勝後、新型のインプレッサに切り替えたスバルチームでコリンは引き続き活躍を続けます。
1993年途中から1994年にかけてインプレッサは優れたポテンシャルで何度か優勝または表彰台という好成績を上げますが、問題はコリンでした。
この時期のコリンは1994年に2勝を上げるなどサインツ(1勝)より優勝回数は多かったものの「マクラッシュ」ぶりも存分に発揮しており、「優勝かリタイヤか」という走りでスバルのマニュファクチャラーズポイント獲得にあと一歩及ばない原因になってしまいます。
何しろ、9戦出場中完走4回、うち優勝2回ですから、「三振かホームランか」という典型的な例となったのです。
文字通りインプレッサのスクラップの山を築いたコリンに、プロドライブ代表のデビッド・リチャーズは「ノープロブレム。スペアボディならいくらでもある」と、怒っているのか本当に問題無いのか微妙な声をかけ、STIの久世氏も励ましの言葉をかけていました。
マクラッシュ返上?!生涯唯一のドライバーズチャンピオンとなった1995年
1995年シーズンに入っても2戦立て続けにリタイア、しかもその間に開幕戦モンテカルロでは同僚のカルロス・サインツがしっかり優勝していたので所在無かったコリンですが、第3戦ポルトガルで完走3位入賞して以降、覚醒します。
以前の「マクラッシュ」ぶりは影を潜めて完走し、それだけでなく優勝2回に2位表彰台2回とポイントもしっかり稼ぎ、ついにドライバーズタイトルを獲得!
完走すれば最低でも上位にいたサインツのポイントと合わせ、スバルのマニュファクチャラーズタイトルも決め、スバルはついに念願のWRCダブルタイトルを獲得したのです。
トヨタがツール・ド・コルスでのリストリクター不正事件で全ポイント剥奪などペナルティを受けた隙をついたとはいえ、最後の2戦はインプレッサで表彰台を独占するなど、見事な勝利となりました。
その一方、コリンは「最終戦のRACでどうせ勝ってドライバーズ獲得できるんだし、ここは2位に抑えてサインツを勝たせるように」という第7戦カタルーニャでのチームオーダーに、すごい剣幕で腹を立てていたエピソードが残っています。
「マクラッシュ」ぶりが影を潜めたとはいえ、コリンはやはり「いつでも全開の人」なのでした。
フォードへの移籍
その後のコリンは1996年、1997年と激走し自身の勝利数を伸ばすと共にスバルの3年連続マニュファクチャラーズタイトル獲得に大きく貢献します。
しかし、三菱ワークスでランサーエボリューションを駆るトミ・マキネンという大きな壁に阻まれ、1997年など再び「マクラッシュ」癖が再発。
わずか1ポイント差でドライバーズタイトルを逃すなど、自身のタイトルには恵まれませんでした。
翌1998年にはフォードを経てトヨタに移籍しカローラWRCをドライブするかつての同僚、サインツにも阻まれドライバーズタイトル3位に沈みます。
その原因は、コリン自身の問題だけではなく、初代インプレッサの旬が過ぎていたということは明らかでした。
そして1999年に、新型のフォーカスWRCを投入したフォードへエースドライバーとして移籍。
14戦中11戦でリタイアを喫するなど、フォーカスの信頼性不足に悩まされながらも残り3戦中2勝を上げる事に成功。
2000年からは再びサインツを同僚として迎え、2001年にはまたもやドライバーズタイトル獲得のチャンスが巡ってきます。
しかし最終戦RACラリーをまさかの転倒クラッシュで終え、おまけにタイトルは古巣のスバル、それも同じスコットランド人のリチャード・バーンズにさらわれるなど、散々な結末となりました。
2002年も2勝こそ上げたもののそれ以外は精彩を欠き、コ・ドライバーのニッキー・グリストとの確執も表面化。
さらに、高額な契約金を嫌ったフォードから放出されてしまうのです。
その後のコリン
2003年は1996年までコンビを組んでいたデレック・リンガーをコ・ドライバーに迎え、シトロエンのエースドライバーとしてクサラWRCを駆るものの結果を残せずに終わってしまいます。
そして、結局この年がWRCレギュラードライバーとしては最後の年となり、2004・2005年は日産チーム入りしてダカールラリーなど長距離ラリーレイド競技に出場。
日産 ピックアップ(日産 D22型フロンティア。日本未発売)を駆り、ラリーレイドでも変わらぬ走りを見せ、2004年11月にはバハ・アンタ・ダ・セッラ・ポルタレグレ500で自身唯一のラリーレイド総合優勝を果たしました。
WRCは2005年にシュコダ ファビアWRCで2戦のみスポット参戦し、2006年にはセバスチャン・ローブの代役で1戦のみシトロエンを駆りましたが、それが最後のWRC参戦となります。
早すぎた死
2006年にはアメリカのエクストリームスポーツの祭典「Xゲームズ」夏のラリー部門に参戦。
派手に転倒クラッシュしながらもゴールし、好タイムをマーク。
2位に入賞し、「マックラッシュ」らしさを存分に発揮します。
翌2007年8月もXゲームズ夏のラリー部門に参戦し、まだWRCのシートをあきらめていないことをアピール。
しかし、これがコリンの最後の姿となりました。
2007年9月15日、自宅のあるスコットランドのラナーク周辺で、コリンの操縦していたユーロコプターAS350が墜落。
コリンとその息子ジョニーを含む、搭乗者6人全員が死亡という大事故を起こします。
「ラリー界のヒーロー」がわずか39歳でこの世を去った事実は世界中で衝撃を与え、同年9月30日に葬儀の後に行われた追悼パレードには、100台を超えるスバル インプレッサと2万人以上のファンがその死を惜しみました。
決してタイトルに恵まれたとえは言えなかったものの、その走りは多くのファンを魅了しました。
その栄光をたたえ、スウェディッシュラリーで彼が大ジャンプを決めたクレスト(起伏)で最長飛距離を決めたドライバーに毎年贈られる「コリンズ・クレスト・アワード」にその名が残されています。
まとめ
1990年代のある時期、トヨタ セリカGT-FOURや三菱 ランサーエボリューション、そしてスバル インプレッサによる「WRCの日本車黄金期」がありました。
その中ではクレバーに結果を残すプロフェッショナルなドライバーもいましたが、対象的に激しいドリフト双方で見る者を興奮させるコリンのようなドライバーは、その思い切りの良さで大人気となり、ゲームのタイトルにもなっています。
ラリーだけではなくツーリングカーレースやル・マン24時間レースで好成績を残し、F1マシンや2輪でもモトGPマシンですら乗りこなす彼は万能ドライバーでした。
しかし、コリン・マクレーと言えばやはり、「ペダルであれば全て床まで踏む」というドライビングスタイルを全力で見せてくれるラリーこそ、その真骨頂だったと言えるでしょう。
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