レースからストリートまで幅広いファンから支持されるモリワキは、バイクのアフターパーツ、特にマフラーの話になると必ずと言って良いほど名前が挙がるメーカーです。モータースポーツにおいても、レーシングマシンのコンプリートモデル制作から若手ライダーの育成まで、その活動はパーツメーカーの枠を超えていると言っても過言ではありません。今回は、現在も世界のバイクシーンを牽引する『モリワキエンジニアリング』についてご紹介します。
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カスタムもアツかった!1980年代のバイクブーム
1980年代に、突如として訪れたバイクブーム。
バイクが登場するコミックや雑誌、映画が次々とヒットし、好景気も追風に多くの企業がレースのスポンサーになるなど、日本中が活気に沸いていました。
そしてバイクファンは、レースやツーリングなど様々なスタイルでバイクライフを楽しみ、その中にはカスタムを楽しむ方も多かったのではないでしょうか。
当時人気があったのは、一昔前の暴走族のような目立つカスタムではなく、バイクを速くするための、いわゆるチューニングに近いカスタムでした。
ロードバイクにおいて『セパハン』・『バックステップ』・『マフラー』は三種の神器的な存在で、その他にもヘッドライトを黄色くする『イエローバルブ』、プラグの点火を強力にする『ガンスパーク』、キャブレターの吸気量を多くする『パワーフィルター』なども人気があり、往年のライダーにとってはどれも懐かしく感じると思います。
また『キタコ』や『月木』、『キジマ』に『ビート』、『RPM』など各パーツメーカーから様々なアフターパーツがリリースされ、カスタム熱もヒートアップしていきました。
その中で、圧倒的な支持を得ていたのが『ヨシムラ』と『モリワキ』です。
集合マフラーのヨシムラ
多気筒エンジンのマフラーを、1本にまとめる『集合管マフラー』。
この集合管マフラーを最初に開発、発売したのが日本屈指のチューニングメーカー、現在のヨシムラジャパンです。
今では2輪のイメージが強いヨシムラですが、1960年代は4輪のチューンングも手掛けており、ホンダS800用に軽量化を目的として試作したのが集合管マフラーの始まりでした。
そしてその試作品を実際に装着してみると、パワーの向上やトルク特性に変化が見られたのです。
そこでバイク用にと試行錯誤を重ねて作成した集合管マフラーをCB750Fourに装着してみると、なんとパワーが7馬力もアップしたそう。
そこで1971年に集合管マフラーを装着したCB750で、AMAオンタリオ250マイルレースに出場します。
しかし、結果は惜しくもリタイアに終わりますが、このレースで集合マフラーの存在を世界にアピールすることができました。
そして、POP(オヤジ)の愛称で慕われていたヨシムラの代表『吉村秀雄』は、オートバイ屋のオヤジから次第に世界のチューナーとして一目置かれるようになります。
そして吉村の傍らには常に、一人の男の存在がありました。
その男こそモリワキエンジニアリングの創業者、当時ヨシムラ所属のレーサーであった『森脇護』なのです。
最高時速200kmのCB72 同門のチューナー松浦賢
1966年、森脇はCB72に跨り、地元 神戸を後にします。
そして17時間かけて到着した地は、東京都秋川市(現在のあきる野市)にあるヨシムラコンペティションモータース。
当初はヨシムラでCB72をチューンしてもらう目的で通っていたのですが、気付いたらすっかり居ついてしまったそうです。
そして同年、一人の男がヨシムラに弟子入りします。
その男は、吉村と共に森脇のCB72にチューンを施し、最高時速200kmを超える凄まじいマシンに仕上げたのです。
男の名は『松浦賢』。
後にトヨタのレーシングエンジンの開発に携わる『ケン・マツウラ・レーシング』の創業者である、松浦賢その人でした。
松浦は愛媛から布団を積んで、ホンダS600 で上京。
ヨシムラ在籍中は自身でチューンしたS600で、1967年第4回日本GP T-1クラス優勝を果たすなど、レーシングドライバーとしても活躍します。
その後、愛媛に戻りケン・マツウラ・レーシングを設立。
現在は社長の座を息子の松浦賢太氏に譲るも、顧問として活躍しています。
森脇からモリワキへ
森脇は幼少期、バードウォッチングを楽しむような温厚な性格でした。
しかしバイクに目覚め、レーサーの道を歩み始めます。
そして神戸から上京し、ヨシムラに籍をおいた森脇は、ヨシムラ直属のレーシングチームに入門し、メキメキと頭角を現しました。
ちなみにそのレーシングチームには、吉村の長男、現ヨシムラジャパン社長の吉村不二雄氏の姿もありました。
森脇は1968年にジュニア 250ccクラスでランキング4位を獲ると 、1969年にはセニアクラス 251cc以上でランキング3位。
ヨシムラ初の海外遠征となる1970年のシンガポールGPでは、350ccクラスで優勝で飾り、同時にオープンクラス2位と活躍します。
そして 1972年には、セミエキスパート 250ccクラスでチャンピオンに輝くのです。
また、四輪のレースでも輝かしい結果を残しますが、経済的な理由でバイクに専念したと言われています。
そしてその頃、CB500Fourにも乗るようになりますが、大型バイクのバランスの悪さに違和感を覚え、それを機に吉村に師事し、自らチューニングを学び始めました。
特に力を入れたのがフレームで、素材の加工から溶接まで日々研究を重ねます。
そして森脇は、1971年には吉村の長女である南海子と結婚。
その翌年にヨシムラは、アメリカに進出することとなりますが、経営上のトラブルに見舞われます。
そこで森脇と南海子は吉村に意見するも、職人気質の吉村は耳を貸そうともせず、二人を勘当してしまうのです。
結局、森脇が研究に取り組んでいたフレームは、ヨシムラのチームで走ることはありませんでした。
勘当後二人は神戸に身を寄せますが、すぐに三重県鈴鹿市に移り住み、そして鈴鹿の地で「モリワキエンジニアリング」が産声をあげます。
それは1973年9月30日。
この日は森脇の誕生日でした。
第4回鈴鹿8時間耐久レース アルミの骨格に包まれた怪物
1981年、第4回鈴鹿8時間耐久レースで、観衆はモリワキに注目することになります。
カワサキのZ1000をベースとして創られたレーシングマシン『モリワキモンスター』に、ライダーは後のWGPライダーとなるワイン・ガードナー。
予選では前年度の覇者でもあるヨシムラのグレーム・クロスビーが果敢にアタックし、2分15秒75をマーク。
しかし当時無名に近かったガードナーが2分14秒76のコースレコードを叩き出し、ポールポジションを奪ったのです。
ガードナーがピットに戻ると、森脇は感極まって泣いて喜んだと言います。
しかし、本戦ではガードナーが60週目にトップに立ちますが転倒、リタイアする結果に終わりました。
しかし観衆が注目したのは速さだけではなく、モリワキモンスターのフレームで、日本初の『アルミフレーム』に注目が集まったのです。
今では珍しくもないアルミフレームですが、メーカーが市販車に採用したのは、2年後の1983年に発売されたスズキRG250Γが最初でした。
モータースポーツを楽しむ Moriwaki Dream
モリワキが手掛けるレーシングマシン、その名もMoriwaki Dream、通称『MD』。
バイクを手軽に楽しんでもらい、そして少しでもモータースポーツの普及に貢献したいとの思いで作り上げたMDシリーズは、MFJ全日本選手権GP-MONOクラス(2006-2011)に参戦する為のコンプリートモデルとして制作されました。
現在ではホンダ製のエンジンを搭載した『MD250H』がリリースされていますが、モリワキのコンセプトになるマシンとして『MH80R』の存在があります。
モトクロッサーであるCR80のエンジンを市販車のNS1フレームに搭載したレーシングマシン、MH80R。
国内外で活躍しているライダーの中には、MH80Rで練習したライダーも多くいるのではないでしょうか。
そして、その精神はmoto2、MotoGPと受け継がれていくのです。
モリワキを駆った男たち
モリワキはレーシングマシンを制作するだけでなく、レーサーの発掘、育成にも力を入れています。
また市販車改造カテゴリーであるTT-F1やTT-F3クラス、そして鈴鹿8時間耐久などに積極的にマシンを投入し、優秀な戦績を上げ、現在までに多くの才能あるライダーを輩出てきました。
ワイン・ガードナー
第4回鈴鹿8時間耐久で、ポールポジションを獲得したワイン・ガードナー。
後にホンダに移籍し、WGP500において『4強』と呼ばれるライダー達の一角を担います。
また、計10回にわたり鈴鹿8耐に出場し、その雄姿を日本のファンに見せてくれました。
現在は息子のレミー・ガードナーも、GPライダーとしてmoto2クラスで活躍しています。
ケビン・マギー
1985年の鈴鹿8時間耐久に初出場したオーストラリア人ライダー、ケビン・マギー。
翌年の1986年にはマイケル・ドーソンと組んで2位を獲得。
その後ヤマハに移籍し1987年からWGPに参戦。
同年の鈴鹿8耐では、見事優勝に輝きます。
それはヤマハにとって、鈴鹿8耐初優勝でもありました。
八代俊二
WGP500において、ガードナーのパートナーを務めたのが八代俊二でした。
1994年に、TT-F1のチャンピオンを獲得。
1986年には、ホンダからNSR500を貸与され日本ロードレース選手権500ccクラスにエントリーします。
その後ホンダワークスチームに移籍し、WGP500にエントリー。
ブレーキをギリギリまでかけずにコーナーに突っ込んでいくライディングスタイルから、『突っ込みハッチ』の愛称で親しまれ、現在はモータースポーツジャーナリストとして活躍しています。
樋渡治
バイクの手曲げチタンマフラーで有名な『アールズ・ギア』。
その代表である樋渡治氏も、モリワキに所属するライダーでした。
1984年に福本忠と組んで出場した鈴鹿8耐で、同じモリワキからエントリーしていた八代俊二・宮城光ペアがエンジントラブルでリタイアする中、堂々の4位入賞。
また、1987年には3気筒のNS500で日本GP 500ccに参戦し、雨の降る鈴鹿で優勝を飾りました。
その後はスズキワークスのライダーとして、世界GP500、全日本GP500に参戦し、1988年には鈴鹿でRGVΓに初優勝をもたらします。
また、同時にマシン開発にも携わり、後の世界チャンピオン、ケビン・シュワンツを支えました。
そして1994年に現役を引退し、現在に至ります。
高橋裕紀
言わずと知れた現役モリワキライダー、高橋裕紀。
7歳からポケットバイクをはじめ、その後ミニバイクにステップアップ。
2000年には、125ccクラスで全日本ロードレースにデビューします。
そして250ccを経て舞台を世界へ移し、2009年にはロードレースの最高峰MotoGPに参戦し、2010年にmoto2クラスへ転向。
そして2014年からモリワキレーシングと共に、全日本ロード選手権をメインに活動し、同時にアジア選手権、鈴鹿8耐でも活躍しています。
カスタムを楽しむ モリワキのマフラー
一般のライダーであれば、ヨシムラと同様にモリワキと聞くとマフラーのイメージが強いのではないでしょうか。
モリワキのマフラーは現在豊富にラインナップされていますが、バイクブームの頃は『ショート管』、モナカ管の愛称で呼ばれる『モンスターマフラー』、そして今では廃盤になっている『フォーサイト』が人気でした。
鉄パイプに砂を詰めて高熱であぶり、手で曲げる、いわゆる『手曲げ』という手法も話題となり、バイクを購入したらまずはマフラーを交換することが、カスタムの第一歩だったライダーも多かったと思います。
当時は、ほとんどのマフラーがスチール素材で作られており(サイレンサーにはアルミを使用したマフラーもありました)、取り付けたあとにエンジンをかけるとエキパイ部分から煙があがって(耐熱塗装によるもの)数日後には錆に泣かされたライダーも多かったのではないでしょうか。
今ではステンレスやチタンなど素材も進化し、また音量規制により車検対応マフラーもリリースされているので、安心してカスタムを楽しめるようになりました。
まとめ
今回はモリワキエンジニアリングについてご紹介しました。
創業者の森脇護は、師匠であるポップヨシムラこと吉村秀雄に師事し、レーサーからチューナーへシフト。そして独立します。
そして、ヨシムラがトラブルに遭った際も全力でサポートするなど、現在でもヨシムラとの関係は良好。
また積極的にレースに係わり、そこで得た技術を自社のパーツにフィードバックしています。
だからモリワキのパーツは信頼性が高く、ファンを惹きつけるのではないでしょうか。
そしてモリワキエンジアリング代表の森脇護氏は、レースを志す若者たちへこんな言葉を送っています。
「君に、そして君たちに不可能はない」と。
今年も夏がやってきます。そして8時間の戦いのために、モリワキはじめ多くのチームが鈴鹿に集結します。
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