ロータスが2012〜2015年までF1グランプリに参戦していたことは記憶に新しいと思います。この4年間では目立った戦績を上げることができませんでしたが、1960〜70年代のロータスは、創業者コーリン・チャップマンの天才的なアイディアが生んだ名車たちがF1GPで華々しい活躍を遂げていました。ここでは全盛期のロータスを彩り、その後のF1に強い影響を与えたマシン4選を紹介します。
掲載日:2019.9/7
ロータス25(1962年)
1962年に登場したロータス 25は画期的なマシンでした。
なぜなら、車体の主構造にアルミ製のモノコックシェルを採用していたのです。
この時代のF1マシンは鋼管を組み合わせたスペースフレーム構造がほとんどでしたが、コーリン・チャップマンはより剛性と軽量性に優れたモノコックシャシーを開発しました。
これにより、シャシー剛性は前モデルの『ロータス・24』の倍以上となり、操縦安定性が大幅に向上します。
当時、ドイツGPはニュルブルクリンク・ノルドシュライフェでの開催でした。
バンピーな路面で知られるニュルブルクリンクですが、ロータス・25のシャシー剛性の高さがもたらす操縦安定性は、大きなアドバンテージとなったはずです。
さらに、アルミモノコック自体が29.5kgと非常に軽く、それまでの鋼管スペースフレームと比較しても約10kg近い軽量化に成功しています。
この年、ロータス・25はデビュー3戦目にして早くもベルギーGPでジム・クラークが優勝を飾り、BRMに乗るグラハム・ヒルと最終戦までチャンピオン争いを展開。
’62年のチャンピオンはヒルに譲りましたが、翌’63年には発展型の33でクラークがワールドチャンピオンに輝きました。
そして’62年以降、各チームはアルミモノコックの開発を始め、スペースフレーム構造を「過去の遺物」にしてしまいます。
さらにロータスが25で採用したアルミモノコックは進化を続け、1980年代半ばにカーボンモノコックが登場するまでは、F1マシンの主流でした。
ロータス・49(1968年)
1966年、F1はレギュレーションが変更され、排気量の上限が3リッターまで拡大されました。
ロータスはBRM製のH型16気筒の供給を受けてマシンを開発しますが、エンジン自体が大きく重いことに加え、信頼性も欠けていたため’66年、’67年のタイトルを連続で逃してしまいます。
しかし1968年、ロータスは小型・軽量かつ高出力のV型8気筒「フォード・コスワース・DFVエンジン」の獲得に成功します。
そして、DFVエンジンを搭載するシャシーにまたしても天才的なアイディアをもたらし、グランプリを席巻したのです。
当時、全てのF1マシンは既にミッドシップレイアウトに移行し、またロータスが25でもたらしたアルミモノコックシャシーが主流となっていました。
それまでの一般的なF1マシンは、コクピット背後のパワートレインはシャシーの上にマウントされていたのです。
ところがチャップマンはモノコックをコクピットまでしか構築せず、コクピット直後のリアバルクヘッドにパワートレインを直接結合し、マシンのストレスメンバーとして使用しました。
つまりパワートレインそのものをシャシーの一部として使うというアイディアです。
リアサスペンションの上下アームは、エンジン・ケースに直接取り付けられ、応力はパワートレインが受ける構造にたっています。
そして1968年シーズン、ロータス49は圧倒的な強さを見せ、BRMより移籍してきたグラハム・ヒルがチャンピオンに輝き、チームもコンストラクターズ・タイトルを獲得しました。
ロータス・49で始めたこの手法も、やはり瞬く間に他のチームに広がり、現在まで踏襲されています。
ロータス・72(1970年)
ロータスは1969年、四輪駆動を採用した初のF1マシン、63を投入しますが、重量増を招いた結果、思うような活躍ができませんでした。
そして1970年シーズン、63の雪辱を期して新たに開発したのが72だったのです。
1960年代までのF1マシンはいわゆる「葉巻型」と呼ばれるボディスタイルでしたが、72ではそれまでフロントに搭載していたラジエターをサイドポッドに移設し、クサビ型の斬新なボディスタイルを実現。
空気抵抗を大きく減らし、ボディ全体でダウンフォースを得ることに成功しました。
同時にラジエターをサイドポッドに移したことにより、車体回転軸周りのヨー慣性モーメントも大幅に低減させ、コーナリング性能をアップさせたのです。
そして72はデビューするなり、ヨッヘン・リントがチャンピオンを獲得。
1972年にもエマーソン・フィッティパルディが王座に輝きます。
これを機にマクラーレンやフェラーリ、ティレルもサイド・ラジエターを取り入れ、サーキットから葉巻型のマシンは姿を消しました。
今では考えられないことですが、ロータス72は実に6年間もサーキットで活躍します。
この事実は、いかに72の設計が優れていたかという何よりの証拠でしょう。
ロータス・78(1977年)
ロータス・78は、1970年代後半に突如現れ、F1マシンの概念をガラリと変えてしまった名車です。
この時期は6輪のF1マシン、ティレルP34が誕生するなど各チームが試行錯誤していましたが、ロータスはまたしても独創的なアイディアを生み出し、F1を変えました。
空気力学の理論をF1マシンに取り入れる取り組みが1960年代の末から試され、この時期にはフロントとリアのスポイラーは当たり前になっていましたが、チャップマンは全く別の手法を取り入れたのです。
チャップマンが参考にしたのは、航空機の翼でした。
航空機の主翼は翼の下に遅い気流、翼の上に早い気流を生み出し、揚力を発生させています。
チャップマンのアイディアは翼の断面形状を180度逆向きにした形状のマシンを製作し、車体上部に遅い気流、車体下部に早い気流を流すことで強力なダウンフォースを得ようとするものでした。
その仕組みを採用して作られたロータス・78は「ウイングカー」と呼ばれていましたが、車体全体を一つの翼と捉えると理解しやすいでしょう。
ウイングカーが真価を発揮するには、車体下部と路面との間の空気を遮断しなければなりません。
そのためロータス・78は、サイドスカートの下端を地面に垂らすことにより、車体の下部と路面との間を密閉し、ダウンフォースを得ていたのです。
つまり、車体下部が常に地面に接触している構造となります。
そして、翌1978年には進化型のロータス・79が登場し、マリオ・アンドレッティが見事にワールドチャンピオンを獲得。
1973年以来のコンストラクターズタイトルの獲得にも貢献しました。
これを機に各チームは一斉にウイングカーの開発に着手し、1983年にフラットボトム規制が導入されるまで、サーキットを席巻したのです。
まとめ
かつて、F1におけるロータスはコーリン・チャップマンの天才的なアイディアによって、まるで魔法のように次から次へと斬新なマシンを生み出し、サーキットに旋風を巻き起こしました。
これはロータスの市販スポーツカーにも共通していましたが、チャップマンの設計の根底にあったものは「車は軽さとシャシー性能にある」という思想です。
速い車、というとどうしてもエンジン性能ばかりを追求しがちになってしまいますが、ロータスは自社でエンジンを開発せず、比較的非力なエンジンで勝利を重ねていました。
そうして車が軽くてシャシ性能が優れているなら、小さくて非力なエンジンでも十分以上に勝負できるという主張を、サーキットや公道で証明してみせたチャップマンは、まさに不世出の天才エンジニアといえるでしょう。
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