三菱車の1台として紹介されることも多い、カイザー=フレーザー・ヘンリーJ。戦後日本の自動車メーカーが海外メーカー車の国産化で実力をつけていった事例の先駆と言っても良いのですが、三菱グループの中でも現在の三菱ふそうトラック・バスの始祖にあたる部門で作られており、単純に『三菱自動車の車』とは言い切れないようです。

 

ひらがな文字の入ったナンバーから1955年以降3月以降登録とわかる三菱ヘンリーJ後期型 / © TOYOTA MOTOR CORPORATION.All Rights Reserved.

 

戦後真っ先に日本でノックダウン生産が始まったヘンリーJ

 

トヨタ博物館所蔵のヘンリーJ、1952年8月以前のモデルだが、東日本重工業(三菱日本重工業)製かカイザー=フレイザー社製かは不明 / ©TOYOTA AUTOMOBILE MUSEUM

 

第2次世界大戦中にリバティ船と呼ばれる急造商船を毎日のように、さらに週に1度は空母(商船改造の護衛空母)すら完成させて日本に攻撃する一端を担ったアメリカの『カイザー造船所』が今回の話の主役。

いくら戦勝国と言えども、戦後は軍需縮小と民需転換に迫られます。

1950年のこと、創業者のヘンリー・J・カイザー会長は、航空機部門を民需転換させる一策として自動車産業への進出を計画します。

ジョゼフ・W・フレーザーの経営する自動車メーカー、グラハム=ペイジに資本参加して、『カイザー=フレイザー』を設立しました。

そして、新会社はまずカイザー、フレーザーと創業者名ド直球の2台を登場させると、第3弾として小型車ヘンリーJを1950年に発売します。

一方で海の向こうの敗戦国、日本でも景気や復興の度合いに差はあれど事情は似たようなもので、旧・三菱重工が進駐軍による財閥解体で3分割され(東日本重工業・西日本重工業・中日本重工業)、敗戦により消滅した軍需に代わる民需を求めていました。

東日本重工業は川崎製作所で『ふそう』バスの生産を再開し、乗用車への進出を目論んだものの、かつてA型乗用車(1917年)や軍用4WD乗用車PX33(1936年)を作った神戸造船所は中日本重工業の傘下となっており、川崎製作所では実績がありません。

そこで当時既にその名を轟かせていたフォルクスワーゲン・タイプ1『ビートル』のノックダウン生産をできないか模索していましたが、実際に生産したのはカイザー=フレーザーのヘンリーJでした。

カイザー=フレーザーとの提携にこぎつけた背景には、日本でノックダウン生産(部品を輸入して組み立て)したヘンリーJはアジアなどに輸出して良いとの許可が有った事があり、輸出で外貨を稼ぎたい東日本重工業としても渡りに船だったわけです。

 

技術蓄積に貢献、輸出実績も作ったヘンリーJだったが

 

ナンバー『34.523』から1951年以前に登録とわかるので、おそらく1951年式三菱ヘンリーJ前期型左ハンドル / 出典:http://www.classiccarcatalogue.com/HENRY%20J%201951.html

 

ところでヘンリーJですが、思い切った安価で販売するために装備を簡素化し、古くても信頼性のあるウィリス製2.2リッター直4、または2.6リッター直6サイドバルブエンジンを搭載した小型車でした。

日本的な感覚では現在の視点から見てもかなり大きな車に感じますが、スズキ『47万円アルト』のような車だったと思えばいいかもしれません。

ただ、大柄で6人乗りの割に2ドアしか無く、トランクリッドまで簡素化されているのでトランクとの荷物の出し入れは、リアシートを倒して行うしかないなど実用性に欠け、「少し奮発すればマトモな車が買える。」と、あまり評判は芳しくありませんでした。

1951年モデルからはトランクリッドが追加されましたが、2ドアしか無い点や左右2分割のフロントガラスは最後まで変わっていません。

東日本重工業では輸出可能という条件ばかりでなく、ヘンリーJの組み立てに必要な最新のアメリカ製スポット溶接機を購入でき、プレスや焼付塗装の技術も提供されたため、外貨を稼げる技術を蓄積できると勇んで生産を開始。

1951年6月には、早くも1号車を完成させました。

東日本重工業で生産されたグレードは当初、4気筒エンジンの『コルセア』のみでしたが、後に6気筒の『コルセアデラックス』も生産されています。

ちなみにカイザー=フレーザー側の目論見としては、当時の日本では需要があるとしても進駐軍と法人や官公庁、一部富裕層ぐらいなので、日本向け500台、海外向け2,500台の年間3,000台ほど生産してアジアの拠点になってくれればいい、くらいの感覚だったようです。

しかし東日本重工業ではもっと大きな夢を見ていたようで、月産1,000台を目指して日本での販売会社東日本カイザーフレーザーを設立しますが、2ドアしか無いのが祟って法人需要は旧三菱系企業ですら振るわず、結局ほとんど進駐軍(在日米軍)にしか売れませんでした。

とはいえ、組立に3日で1台かかり、月産30台が限度だったので、カイザー=フレイザーが期待した生産台数にすら達することはありません。

ただ、日野や日産、いすゞが同じように海外メーカーの技術提携を進めようとしていた時期だったので各メーカーからの見学は多く、東日本重工業改め三菱日本重工業(1952年社名変更)でも技術の蓄積に大きな役割を果たしたと言われます。

また、輸出の方でも、実際にタイや沖縄(当時はアメリカの統治下)、その他アルゼンチンなど中南米にも輸出されて、実績を作ることができました。

しかしカイザー(1952年社名変更)は販売不振で1953年には乗用車事業から撤退。

同年に買収されて、ウイリス社のジープ生産に集中する事になり、三菱日本重工業との提携も1953年3月で終わってしまいます。

ただ、部品は残っていたので1954年7月まで生産は続けられ、日本カイザーフレーザー(1952年社名変更)を吸収合併した三菱ふそう自動車で販売されていました。

三菱・カイザー=フレーザー・ヘンリーJの生産台数は3年1が月で509台、うち輸出が185台で国内販売は324台、月産は約14台という結果で終わっています。

 

主なスペックと中古車相場

 

三菱日本重工業によるヘンリーJのカタログ(1951年) / 出典:http://www.en.japanclassic.ru/booklets/166-mitsubishi-henry-1951-i.html

 

三菱(カイザー=フレーザー) ヘンリーJ コルセアデラックス 1951年式

全長×全幅×全高(mm):4,626×1,778×1,514

ホイールベース(mm):2,540

車両重量(kg):1,061

エンジン仕様・型式:水冷直列6気筒SV12バルブ

総排気量(cc):2,638

最高出力:60kw(81ps)/3,800rpm

最大トルク:180N・m(18.4kgm)/1,600rpm

トランスミッション:コラム3MT

駆動方式:FR

中古車相場:皆無

 

まとめ

 

こちら本家カイザー=フレーザーのヘンリーJ1951年モデルで、本場ではまだまだ現役で走っています。 / Photo by Greg Gjerdingen

 

こうして、戦後の三菱自動車の歴史はヘンリーJから始まったという話かと言えば、単純ではありません。

ヘンリーJを作っていた三菱日本重工業(旧・東日本重工業)川崎製作所は、後に三菱自動車となる工場を多く傘下に置いた新三菱重工業(旧・中日本重工業)とは別の系列でした。

そのため、新・三菱重工業として旧・三菱重工業3社が再統一後、1970年に自動車部門が独立した際には三菱自動車工業東京自動車製作所として三菱自動車の一部へ。

しかし本業がバスやトラックだったことには変わらず、2003年には『三菱ふそうトラック・バス』として独立し、ドイツのダイムラーからの出資を受けて子会社となって現在に至ります。

つまり、三菱ブランドは関係してくるものの、今の三菱自動車とは直接関係が無く、あえて言えば「三菱ふそうトラック・バスの川崎工場は、昔ヘンリーJというアメ車を作っていたんだよ。」ということ。

ちなみに、三菱自動車の直接の前身である、当時の中日本重工業水島製作所などはオート3輪の『みずしま号』や、スクーターの『シルバーピジョン』を作っており、三菱自動車公式サイト内『三菱車の歴史』にも登場しますが、ヘンリーJは出てきません(『沿革』には一応出ます)。

一方、三菱ふそうトラック・バスの公式サイトでも川崎工場(旧三菱日本重工業川崎製作所)で作っていたヘンリーJについては触れていないため、戦後の混乱期に生まれて消えていったヘンリーJは、歴史の荒波に揉まれ、今や忘れられそうになっています。

 

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