ド派手なエアロにイナズマカラー。1970年代後半のスーパーカーブームに乗って、空前の人気を博した「スーパーシルエット」と呼ばれるマシンたち。中でもシルビア・スーパーシルエットは、日本一速い男・星野一義が豪快に乗り回したことで、多くの若者を虜にしていきました。チャンピオンになった訳でもなく、戦績も圧倒的なものではありませんが、今でもカルト的人気を誇るこのモンスターマシン!その魅力に改めて迫ります。

 

©NISSAN

 

星野一義と日産の関係

 

©NISSAN

 

まずは簡単に、星野一義さんのレースキャリアを振り返ってみましょう。

モトクロスでの全日本チャンピオン獲得後、4輪にスイッチするべく日産自動車のオーディションをパスした彼は、スポーツパーツ開発とツーリングカーレースを行う通称「大森ワークス」に配属されます。

当時の大森は追浜ワークスに次ぐ2軍という扱いながら、星野氏は当時珍しいFF車であるチェリークーペをいち早くモノにし、速さを発揮。
「FFの星野」という異名をとるなど、早くもその頭角を現していきました。

一方でフォーミュラカーレースでもキャリアを積み、異例の速さでトップカテゴリーである全日本F2000にステップアップ。

ここで75、77、78年と3度チャンピオンを獲得すると、この頃から「日本一速い男」と呼ばれる存在になっていったのです。

そして星野さんは、フォーミュラや富士GCでの活躍の傍ら、ラリーカーから市販車まで、幾多の日産車開発にテストドライバーとして関わり続けました。

70年代の日産は、国内レースで表立ったワークス活動から身を引いており、彼にとってもこれらは”裏方仕事”だったと言えます。

しかし、日産と星野さんの関係はこれによって更に深まり、80年代まで続いていくのです。

 

シルビア・スーパーシルエット登場

 

©NISSAN

 

そんな日産の国内ワークス活動復帰となったレースが、1979年からスタートした「富士スーパーシルエットシリーズ」でした。

当時のFIAグループ5規程(通称シルエットフォーミュラ)を日本に初めて持ち込んだこのイベントは、本場からトムスが輸入したトヨタセリカLBターボの勇姿で人気に火が付き、一挙に盛り上がりを見せていきます。

一方の日産は、柳田春人氏のチーム「セントラル20」がLZ20B型ターボエンジン搭載のバイオレットを走らせていました。

これは表立ったワークス活動ではなく、日産としてはあくまでターボユニット開発の一環として行われていた様です。

この参戦体制に星野さんが加わったのが1981年で、彼は前年に立ち上げた自身のチーム「ホシノインパル」からS110型シルビアベースのマシンで参戦を開始しました。(同時に柳田さんも兄弟車・ガゼールでの参戦にスイッチ)

 

©NISSAN

 

搭載されるエンジンは、バイオレットから引き継いだLZ20Bを採用していました。

この年の車体は市販車のモノコックに専用カウルを装備したもので、総合的にはそこまでパフォーマンスが優れたクルマではなかった様です。

それでも2.1リッターシングルターボの発生するパワーは強烈で、まるでドラッグレーサーの様なストレートの速さ、そして派手なアフターファイヤーは、これからやって来る「ターボ時代」の幕開けを告げる強烈なインパクトを持つものでした。

 

伝説の「日産ターボ軍団」現る

 

Photo by Adithya Anand

 

若者を中心に人気が高まる中、スーパーシルエットは自動車メーカーにとってもプロモーション的価値を増していきました。

それにより日産もいよいよ本腰をいれ、当時の人気車種である「スカイライン」「シルビア」「ブルーバード」を本格的なシルエットマシンに仕立て、本格参戦することを決定するのです。

この復活劇のそもそもの発端は、長谷見昌浩氏が追浜ワークスに「スカイラインでシルエットに出たいから、手伝ってほしい」という提案したことがきっかけでした。

それが日産社内でも盛り上がり、遂には宣伝部にまとまった予算が与えられ、この資金を元にノバ・エンジニアリングへマシン製作を依頼することになったのです。

こうして完成した3台のシルエットマシン、通称「日産ターボ軍団」がレースデビューを果たしたのは、1982年のことでした。

 

第2世代シルビア・シルエット登場

 

©︎NISSAN

 

共通の鋼管スペースフレーム構造を持つシルビア、スカイライン、ブルーバードは、もはや市販車のモノコックを被ったプロトタイプマシンでした。

サスペンション形式が微妙に異なっているものの、3台は同時に開発され、基本的に同じ構造・同じエンジンを共有していたのです。

星野さんの操るシルビアも、見た目は前年モデルと似ているものの、全く別物のモンスターマシンへと進化していました。

メカニズム的にはフロントミドシップにエンジンをマウントし、その前部に大型インタークーラーを収めるため、当時としては珍しいサイドラジエター化が図られています。

 

©NISSAN(LZ20B型エンジン ※写真は1981年仕様です)

 

加えて搭載されるLZ20Bターボエンジンは、570ps/7,600rpm、最大トルク55kg-m/6,400rpmという強烈なパフォーマンスへと進化を果していました。

そのパワーは凄まじく、ストレートでは当時のF2マシンを上回るトップスピードを記録するほど。

しかしその反面、ブレーキの性能が追いついていない、パワステが無いのでハンドルが重い、ドッカンターボでタイヤのトラクションが全く追い付いていないなど、非常にコントロールが難しいマシンだった様です。

尚、1983年からは新たにデビューしたS12型シルビアのリトラクタブル・デザインへと変更されていますが、中身の構造は前年型からさほど変化していません。

 

リザルト以上に成功を掴んだ、星野の「ホイールビジネス」

 

© Motorz

 

星野氏がシルビアを駆って残したリザルトは、81年から84年までの4年間で21戦中4勝、というものでした。

これは、決して「日本一速い男」の評価を高めるほどの結果ではありません。

それでも、現在までその勇姿が語り継がれるほど人気となった理由は、マシンのスタイリングの良さと星野さんの豪快な走りにありました。

そしてこの”魅せる走り”による圧倒的な人気が、彼に思わぬ形で大きな利益をもたらすことになるのです。

星野さんが走らせるシルビアは、1981年の参戦開始時からインパル製のオリジナル・アルミホイールを装着していました。

 

出典:http://www.impul.co.jp/products/wheel/Chronicle_Dish.html

 

それは、「インパルD・01」という名前で既に市販されていた3ピース構造のディスク型ホイールで、ホシノインパルの社運をかけた製品でした。

しかし認知度が低かったこともあり、発売当時の売れ行きは芳しく無かった様です。

それがスーパーシルエットでの走りによって人気に火がつき、その売上本数は一時月間2万本、という驚異的なペースを記録します。

その後はD・01をベースに「インパル・シルエット」の名が与えられ、ほとんどデザインを変えることなく2000年代まで続くロングセラー商品となりました。

こうして、ホイールの売上だけで30億円とも言われる売上を稼ぎ出すことに成功したホシノインパルは、後の活動を大きく広げる足がかりを掴んだのです。

 

現在までちゃんとインパルが続いていることを考えると、ビジネスにつながったんだから「スーパーシルエット」というレースと「シルビアターボ」というクルマには感謝するべきだと思う。

今のインパルがあるのは、あのレースがあって、あのホイールが売れたからなんだから。

あのクルマが無かったらインパルはなくなっていたかもしれない。

星野一義氏のコメント (三栄書房 モータースポーツ誌MOOK Strada 79ページより抜粋

 

まとめ

 

©NISSAN

 

まさに”記録より記憶に残る名車”、シルビア・スーパーシルエット。

イナズマを模した鮮烈なカラーリングは、既に円熟期にあったはずの星野氏が”次なる野心”を燃やしていたことを象徴するものでした。

それはつまり自らのブランドの確立であり、”IMPUL”という名が今も特別な意味を持ち続けていることからも分かる通り、その目論見は成功したと言えるのではないでしょうか。

ちなみに、星野さんはこのシルビアに乗っていた1982年、”ニチラ”こと日本ラヂエータ(現カルソニック・カンセイ)と初めてスポンサー契約を結んでいます。

今では切っても切れないくらいほど濃密なカルソニックと星野氏の関係は、このニチラ・シルビアから始まったのです。

後に日本中を席巻する「カルソニック・ブルー」への布石ともなったこのクルマは、やはり星野氏と日産を語る上で、外せない存在といえるでしょう。

 

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