1992年にレーシングカートでレースデビューから約25年。日本のトップカテゴリーで戦い続け、新たにチームを立ち上げるなど、攻めの姿勢を崩さない現役レーシングドライバー”片岡龍也”の素顔に迫りたいと思います。

©TOYOTA

モータースポーツの世界への最初の一歩

今でこそ、日本のトップドライバーの1人に数えられる片岡選手。そんなトップドライバーでも、始めた頃は初心者だったはず。そんな片岡選手は、いったいどんなきっかけでモータースポーツの世界に入ったのでしょうか

出典:https://twitter.com/tk_kataoka

ーーー まず、モータースポーツを始めたきっかけを教えてください。

片岡:そもそものきっかけは13歳の時に、父親が自分の趣味でカートを始めた事。

父親と一緒にカートデビューをした日、父親より既に2秒ぐらい速かったんですよ。

とりあえず重さが違うなどはさておき、子供なのにいきなり乗って、最初からそこそこ走れた。そこから全ては始まりました。

何故最初から速く走れたのか。それは小学校3年生の時にラジコンをやっていて、ラジコンも全日本を目指してやっていたので、比較的車を走らせる理屈?アウトインアウトなどが分かっていたので、それをカートと言う現物に置き換えただけという感じ。

それで、地元のローカルなSLレースに出始めて、毎月出場可能なレース全てにでて、5レース目ぐらいでポールポジションが獲れた…

そのレースは勝てなかったけど、当時タイヤがワンメイクではなく、ポールポジションからスタートしたんですが、当時ウェットで不利だったメーカーのタイヤを装着していて、レースを始めたばかり自分には不利だとか有利だとか分からないけど、後ろからくるみんなが速い(笑)。

それでも我武者羅にブレーキを遅らせたりして、後続を抑えて、最終的には1台に抜かれて2位でゴールしたんだけど、それを見ていたショップの社長が、「才能があるかもしれない。」って思ってくれたみたい。

両親に「上を目指しませんか?」と話てくれて、カートを始めて半年ぐらいで上を目指す事になった。

 

ーーー 趣味ではなく職業にしようと思ったのは最初から?

片岡:うちはそんなにお金がある家じゃなかったから、レースをやるというのは結構大変だった。

まずは親子二人三脚で始めて、カートを始めてから約1年目に地方選手権にスポット参戦してみたら、パンと表彰台に乗ってしまった、俺にはレースの才能あるわ!という大きな勘違いをした訳で。

それで翌年、フル参戦の開幕戦で予選落ち。当時は今と違って決勝24グリットしかない所をエントリーが80台以上あったからワンミス命取りで、1ヒート目にバーンとぶつかって、そのまま予選落ち。なんだかんだ1年通してランキング6位ぐらいだった。

当時はベスト10までが全日本の出場権を与えられたから、その翌年全日本に出たけども、箸にも棒にもかからない。

初年度は、リザルトだけで言うとランキング70位台。100人ぐらいしかエントリーしてない中で70何位。全然話にならないという状態だった。

丁度その頃に、家のお金も尽きて、父親的にはここでレース終了という風になった時に、ステップアップを勧めてくれたショップの社長が面倒を見ると言ってくれた、翌年はショップに費用を大きく負担してもらってレースへ出場、その年は全日本のランキングが9位になった。

当時もタイヤがワンメイクではなく決して有利とは言えない状況でしたが、常に同じタイヤメーカーの中では負けないことを意識して走っていました。結果としてはランキング9位がタイヤメーカーのトップでした。

翌年はいよいよ金銭的にも苦しくなってきました(笑)

ショップに面倒をみてもらいつつ、YAMAHAにもサテライト扱いでサポートしてもらいました。

全日本3年目のシーズンはタイヤがワンメイクになり、言い訳が一つ減りました。その年はずっとチャンピオン争いをしていて、同ポイントで最終戦を迎え、勝った方がチャンピオンと言うガチンコの状況で、相手が1位で自分が2位だった、ランキング2位で悔しい思いをしたけど、翌年からYAMAHAワークスと契約してもらえた。

これがプロとしてのスタートラインで、そこからは完全に1円もお金がかからず、むしろ給料をもらって走るプロカートデビュー。

当時FSAという最高峰のクラスにデビューして、1年目がランキング6位。最高峰の難しいバトルの仕方も覚えて、翌年から2年連続で全日本チャンピオンを獲って、その歳では結構な給料をもらえてた。

 

ーーー YAMAHAワークスとなって2年目に、突然速くなった理由は何故だと思いますか?

片岡:当時ワークスでスペシャルタイヤとか、特殊なタイヤの使い方を1年を通して覚え、それに合わせてセットアップする事も覚えたし、経験してちゃんと吸収して、技術もそうだけど、同時にチーム力も上がっていったから。

 


その後の流れは、才能と運が上手く交錯し、資金面に苦戦しながらもトントン拍子にステップアップしていったかのように見える片岡選手。

しかし、プロのレーシングドライバーへの道はまだまだ険しかったのです。


 

全日本カートチャンピオンの先

レーシングカートの最高峰クラスでのシリーズチャンピオンを獲得した年、片岡選手は19歳。そして翌年もタイトルを獲得し、このままカートを続ける事に疑問を感じ始めます。

出典:https://twitter.com/TK_KATAOKA/media

 

ーーー 当時の目標であった全日本カートチャンピオンを達成して、次の目標はやはり4輪へのステップアップ?

片岡:1回目のチャンピオンを獲った翌年の開幕戦を、前年とまるっきり同体制で迎えたんです。

契約金も体制も何もかも全て一緒。

当時20歳を迎えた頃だったから、正直日本一という、これ以上ない結果を出した時に、これだけしか稼げなくて、当時4輪にも憧れていたけどチャンスもなく。夢が感じられなかった。今思うと生意気ですよね(笑)

それで、そのチャンピオンを獲った翌年の開幕戦が終わった時にレースを辞めようと思い、ショップの一番お世話になっている社長にも今年で辞めますと伝え、YAMAHAにも報告したら、みんな何か次に挑戦するものがあると思ったみたいだけど、完全にノープランでした。

だから『辞めるって上を目指すのか?』と聞かれても『いや、上は目指さない。レースを辞める。』
『辞めてなにするんだ?』と聞かれれば『子供の頃からカートの世界しか知らない。だから、社会を見なきゃいけないから、とりあえずマックでバイトでもするよ。』と。

 

ーーー それで一旦はレース業界を離れ、別の仕事に??

片岡:いや、結果的にそこで辞めると宣言したら、いろんな事が動いて、YAMAHAとTOYOTAが提携してフォーミュラーTOYOTAのレーシングスクールが出来ました。

元々フォーミュラートヨタのレーシングスクールってあったんだけど、メーカーが支援してスカラシップを獲るというのは初めての試みで、逆を言うと前例が無い事だから、自分もそんな事を知らなくて…。
結果的に辞めるって言った事で、ヤマハがワークスとしてカート界に囲っておくよりも、じゃあ。そこで上を目指しちゃえって事になったのだと思う…。

YAMAHAから『フォーミュラートヨタのスクールあるけど行きたい?』って言われた時は、スカラシップ制度を知らなかったから、てっきりYAMAHAがレースを辞める前にフォーミュラーカーに乗らせてくれて思い出作りをプレゼントしてくれたって呑気に思っていた。

それで北海道まで行ったら、スカラシップとかオーディションみたいなことやっているな~と。そういう事ならチャンスがあるかもしれないから、ちょっと頑張ろうと思った。

 

ーーー 一旦は辞めようと決めた世界で、続ける事を決めた理由は?

片岡:スカラシップは10人で4回やったからトータル40人受けていて、その時誰が一緒に受けてたか詳しく覚えてないんだけど、とりあえず最終選考で平中と俺が受かって、いよいよ4輪の世界にデビューすることが出来た。

そもそも辞めようと思ったのが、チャンピオンを獲っても何も変わらない。もう頭打ちの人生という事で辞めようと思っていた訳で、4輪に上がれるのであれば新しい世界が見えるし、可能性、チャンスもある、なにより自分には縁のないと思っていた4輪の世界に挑戦できる。

そして環境としても、とても素晴らしい環境だった。

 


自身がカートでの絶好調の頂点とも言える時期に宣言した『辞める』という決断。誰も予想していなかったその決断の早さこそ、片岡選手の才能なのかもしれません。

20歳の若者が絶頂期に辞めるという事を決断させてしまった『夢の無い世界』が、この事実をきっかけに動き出したのです。


 

そして4輪の世界へ

ワークス契約していたYAMAHAから送り出してもらい、見事に勝ち取ったスカラシップという4輪への切符。片岡選手自身も、そこまで期待はしていなかったという、そのプロジェクトの内容はどのようなものだったのでしょうか。

ここから片岡選手のプロドライバーとしての道がスタートしていくのです。

©TOYOTA

ーーー スカラシップとしての4輪活動は、どのようなものでしたか?

片岡:スカラシップも長々やってくれるものだとは思っていなかったので、1年やっておわりかな~?ぐらいのつもりだったけど、蓋を開けてみれば超本気なプロジェクトでした。

でも当時21歳とかなので、多少自我が目覚めちゃってて、言う通りの事を全くしない。やれって言われる事をむしろやらないぐらいの性格が災いして、中々伸び悩み、1年フォーミュラートヨタをやってランキング2位。翌年F3に行ってランキング6位ぐらい。

確か2年目が3位かな?それと同時にシグマテックというチームのオーナーさんと仲が良かったのがきっかけで、当時シリーズ戦ではなかった鈴鹿1000㎞のテストでポンっとGTに乗る機会をもらって、評価してもらい、1000㎞では予選のアタッカーもやらせてもらって優勝。

それから「その後のシリーズ戦も乗ってみるか?」って話になってデビューしたら優勝。で、もう1回出たら優勝。

最終戦はF3のマカオとかぶっていて出られなくて。

だから、言うなればセリカのクルマでデビューして3レースやって3勝しました。


カート日本一からのスカラシップ獲得という、比較的スムーズなステップアップによる自信からか、伸び悩んだフォーミュラートヨタ。

しかし、同時に次の道も模索しながら進んでいく。そして、その先で確実に結果を出す。

これは、誰にでも真似できる事ではありません。片岡選手はこの攻めの姿勢を崩さない事によって着々と次のステージへのチャンスをつかみ取っていったのです。


 

まとめ

出典:https://twitter.com/TK_KATAOKA/media

日本のトップレーシングドライバーの1人として活躍中の”片岡龍也”。

その軌跡を本人へのインタビュー形式で紹介していくこのシリーズ。今回は、片岡選手がモータースポーツの世界に足を踏み入れたきっかけから、4輪にステップアップするまでをまとめてみました。

才能があっても運が無ければ成功できない。そんなレーシングドライバーの厳しい世界で戦い抜いてきたプロドライバーがどのようにして現在の地位を確立していったのか。

実際に話を聞いてみると、意外に単純なきっかけだったり、普通の事で悩んだり、親近感を覚えます。

敢えて違いを上げるとしたら、決断の早さと行動力。

そんな片岡選手がこの後、4輪ドライバーとしてどんな道を選び、決断していくのでしょうか。

次回はそこに焦点を当てていきたいと思います。

 

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