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これが日本のレースの歴史!伝統の鈴鹿1000kmで優勝した歴代マシンたち[1980年以前編]

今から55年前、日本初の本格的レーシングコースとして生まれた鈴鹿サーキット。多くのレースが開催されてきた中で、50年以上続く伝統の「鈴鹿1000kmレース」は、日本で最も歴史の長い四輪イベントとして知られています。2018年からは「鈴鹿10時間耐久レース」として生まれ変わり、大きな節目を迎えるこのレース。今月末の開催を前に、歴代の優勝マシンたちをご紹介していきましょう。

 

©鈴鹿サーキット

 

日本初の本格レーシングコース、鈴鹿サーキット

 

©鈴鹿サーキット

 

まずは、鈴鹿サーキットの生い立ちにも触れておきましょう。

故・本田宗一郎氏の「人前で競争しないと、いいクルマは作れない。サーキットが必要だ」という考えを受け、彼の右腕である塩崎定夫によって、日本初の本格国際サーキット建設計画がスタートしたのが1960年の事でした。

まず塩崎は「アクセスの良さ」という条件を満たす土地を選び抜き、殆ど独学でコース設計に着手。

彼はヨーロッパ中のサーキットを視察した後、鈴鹿の土地の石膏模型を彫刻刀で削り、なるべく山や田んぼを削らなくて済む様に、丘陵を縫うようなレイアウトを完成させました。

そして、サーキット設計の第一人者として知られるジョン・フーゲンホルツを日本に招き、塩崎案をベースに細部の手直しや提案を行い、1961年に着工。

およそ1年後の1962年9月、遂に日本初の本格的レーシングコースとして鈴鹿サーキットは完成するのです。

そんな全長6.0km(開業当初)のコースにはヘアピンから中速コーナー、全開で駆け抜ける高速コーナーなどが配置され、ありとあらゆる道を想定した究極のテストコースと呼べるもになりました。

そして、この地で行われた初の四輪イベント、第1回 日本グランプリが大成功を収めた後は、レースで勝てばクルマが売れると気付いたメーカーが相次いで自社チームを発足します。

こうして各メーカーが熾烈な技術競争を繰り広げるようになる中、ル・マンの様な厳格なルールで争われる本格的な耐久レースとして企画されたのが「鈴鹿1000kmレース」だったのです。

 

1966年 トヨタ2000GT

 

©鈴鹿サーキット

 

1966年6月、鈴鹿サーキット誕生から4年目の年に記念すべき第1回「鈴鹿1000kmレース」が開催されます。

同年富士スピードウェイで開催された日本グランプリではプリンス・R380とポルシェ・カレラ6によるプロトタイプ対決が注目を浴びましたが、エントリーリストを見る限りでは鈴鹿1000kmは、市販グランドツーリングカーが耐久力を競うイベント、という趣が強かった様です。

この年は市販開始前のトヨタ・2000GTが1,2フィニッシュを決めており、開発段階ながらトヨタのフラッグシップ・スポーツカーとしての役割を見事に果たしました。

優勝ドライバーは同年トヨタワークスに加わった新進気鋭のエース・福沢幸雄と、日産から移籍してきたばかりの津々見友彦というコンビでした。

 

1967年 ポルシェ906(カレラ6)

 

©鈴鹿サーキット

 

第2回大会には遂にポルシェが姿を現し、鈴鹿1000kmにおいても「国産車VS外国車」という対決の図式が始まります。

国内プライベートレーシングチームの先駆けである「タキ・レーシング」がポルシェから買い付けたこの「カレラ6」は、2.0Lクラスながら、当時世界中のスポーツカーレースを席巻する最強マシンとなったのです。

この年、タキ・レーシングは最強のライバルである日産・R380の不在もあり、2位以下に10周もの大差を築いて見事優勝!

マシンを操ったのはオーナー兼ドライバーを務める滝 進太郎と、日産ワークスで多くのレーサーを育て上げ「レースの神様」とまで称された田中 健二郎でした。

 

1968年 トヨタ・7

 

©鈴鹿サーキット

 

3年目を迎えた1968年の鈴鹿1000kmも、日産vsトヨタvsポルシェの頂上決戦で大いに注目を集めました。

当時、トヨタはプロトタイプマシン開発で遅れをとっており、2000GTに替わる純レーシングカー「トヨタ・7」を急ピッチで開発していたのです。

この「トヨタ・7」に搭載されたのは3.0L V8の「トヨタ61E」と呼ばれるエンジンで、数々の耐久レースへ参戦しながら、地道な信頼性向上が図られていました。

そして迎えた鈴鹿1000kmでは、タキ・レーシングのカレラ10、日産ワークスのR380-Ⅱという宿敵を抑え、トヨタが見事1.2フィニッシュを飾ったのです。

トヨタは同年の日本グランプリで、日産の新型マシン・R381(5.5L シボレー V8搭載)に惨敗を喫したばかり。

その雪辱を果たしたレースとも言えるでしょう。

優勝ドライバーは福沢幸雄と、日本人初のF1挑戦者として知られる鮒子田寛という当時の若手最速コンビでした。

 

1969年 チュードル・カレラ6

 

©鈴鹿サーキット

 

1969年の大会を制したこの赤いポルシェ・カレラ6は、おそらく日本初となる「スポンサーカラーを纏ったマシン」でした。

オーナー兼ドライバーを務める米山二郎は、世界的に著名な時計ブランド「チュードル・ウォッチ」の日本総代理店とスポンサー契約を取り付けることに成功し、ポルシェ・カレラ6を購入。

これに加え、チームメイトにはワークス経験者の実力派・津々見友彦を招き入れ、盤石の態勢でワークスとの真っ向対決に挑んだのです。

この年のライバルは5.5L V8エンジンを積むローラ・T70や、ホンダワークスが持ち込んだホンダ1300R、非力ながら総合2番手を獲得したダイハツP-5といったマシン達でしたが、チュードル・カレラ6はこれらのマシンを圧倒して優勝を果たしました。

日産、トヨタ、日野と国内ワークスを渡り歩いてきた津々見も、ポルシェのステアリングを握ったのはこのカレラ6が初めて。
ドライビングのし易さに加え、優れたメンテナンス性、更には内装の仕上げにまでこだわった完成度に、相当の衝撃を受けた様です。

 

1970年 日産 フェアレディZ432

 

©鈴鹿サーキット

 

日本のモータースポーツシーンにおいて、1970年は大きなターニングポイントとなった年でした。

排ガス規制の対応に追われた自動車メーカーはプロトタイプマシンによるレース活動を続々と凍結。

これによりワークス対決に沸いた日本グランプリの開催が中止となってしまいます。

その結果、ワークス勢は市販車をベースとしたツーリングカー、あるいはGTカーによるレースへの参戦へと方針を転換。

この年の鈴鹿1000kmを制した西野 弘美/藤田 皓二 組のフェアレディZ432は、日産ワークスのスカイラインGT-Rやトヨタ勢、更にはいすゞが持ち込んだプロトタイプマシン・ベレットR6をも抑え、プライベーターとして下克上の1勝を挙げています。

名機 S20エンジンを搭載しながら「バランスに難あり」と評されたZ432でしたが、最も輝いたのはこの大舞台での勝利かもしれません。

 

1971年 ポルシェ 910(カレラ10)

 

©鈴鹿サーキット

 

1971年の大会は、前年に続きプライベーター所有のプロトタイプマシンが数台姿を表す程度で、エントラントの大半はツーリングカーでした。

この年はマツダ・ロータリー勢が2位以下10位以内に5台も食い込む大躍進を果たし、「いよいよスカイラインGT-Rの牙城を崩すか!?」という大躍進を遂げています。

しかし、このレースを制したのは、プライベートチームで参戦した 川口 吉正/鮒子田 寛 組のポルシェ・カレラ10でした。

プライベーターにとって、数シーズンを最前線で戦える丈夫なポルシェは、開発力に勝るワークス勢に対抗する為の唯一の方法だったと言えるかもしれません。

 

1972年 トヨタ セリカ1600GT

 

©鈴鹿サーキット

 

1972年の大会は、 高橋 晴邦/竹下 憲一組のトヨタ・セリカ1600GTが優勝を飾っています。

トヨタ・7の開発中止後、トヨタはレース部門を分社化してTMSC-Rを設立。

間接的な形でレース活動を行う体制へと切り替わっていきました。

前年の「日本オールスターレース」でクラス1.2.3フィニッシュを飾り鮮烈なデビューを果たしたこのセリカには、プロトタイプ開発の道を断たれた技術者の悔しさと情熱が注がれていたのです。

当時としては先進的な風洞実験で生み出されたというボディーカウルに加え、1.6L DOHCの名機・2T-Gエンジンを初めて搭載したクルマとしても知られています。

 

1973年 日産 フェアレディ240ZR

 

©鈴鹿サーキット

 

モータースポーツ界にも大打撃を与えたオイルショックの影響で、鈴鹿1000kmはこの1973年の大会を最後に一時休止となってしまいます。

この節目となるレースを制したのは、 高橋 国光/都平 健二がドライブするフェアレディ240ZRでした。

もともと輸出仕様だった2.4L 直6のL24型エンジンは、Z432に搭載されていたS20よりZとの相性が良く、数々のレースで好成績を挙げています。

同年の他エントラントを見てみると、シェブロンB21やローラT290といった小排気量プロトタイプマシンが目に付きました。

この後1970年代のレースシーンは、ワークス対決に代わりプライベーター同士の熾烈な争いが見所となっていきます。

その様な状況の中で、メーカーによる巨額の投資が無くてもスポンサーによって興行出来る、近代的なレースの仕組みが出来上がっていったのです。

 

まとめ

 

©鈴鹿サーキット

 

伝統の一戦を勝ち残ったウィナーの数々、いかがでしたか?

最初の8年間はトヨタ3勝、ポルシェ3勝、日産2勝というリザルトに終わっています。

しかし、プライベーターの持ち込んだポルシェは、各メーカーとドライバーに多くの刺激を与え、国産勢も戦いの中で飛躍的に速さを増していきました。

当時、日本の自動車産業はまだまだ発展途上でしたが、鈴鹿での激闘がメーカー同士の切磋琢磨を生み、日本のクルマを良くしていったことは間違いないでしょう。

次回の特集は1980年代、シルエットフォーミュラとグループCマシンが登場します。

 

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Shinnosuke-Miyano

20代の頃はメカニックをしたり、お洋服の仕事をしたり、とりとめのない日々を送ってきました。 クルマの楽しさやレースの奥深さを、時にマニアックに、時にエモーショナルにお伝えしていければと思います。 https://www.facebook.com/shinnosuke.miyano

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