89年、91年には表彰台を獲得! スクーデリアイタリア

©鈴鹿サーキット

1992年モデル(©鈴鹿サーキット)

イタリアの鉄鋼業を経営する実業家、ジュゼッペ・ルッキーニによって設立されたチームがスクーデリアイタリアです。1988年にデビューし、その時はF3000の改良型で参戦していました。

若手No.1ドライバーJJ・レートや壊し屋の異名を持ったチェザリスによって表彰台も獲得し、そこそこの資金力もありましたが、期待された93年マシンはシャーシバランスが悪く、V10主流な中での重いV12エンジンも問題を多発。

最高速こそトップレベルでしたが、いかんせん耐久性や燃費が悪かったのです。当時の本家フェラーリ自体絶不調で、その中古エンジンで結果を出せるはずもなく、ほどなくチームもF1から撤退することとなりました。

 

 

実力のあるドライバーも乗っていた ユーロブルン

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

1989年ユーロブルンER189(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

ユーロレーシングとブルン・モータースポーツが共同で設立されたユーロブルンはF1で1988年から3シーズン戦いました。初年度の1988年は前年の国際F3000チャンピオン、ステファノ・モデナとヨーロッパF3チャンピオン、オスカー・ララウリを起用。

メインスポンサーがない状態で、市販のコスワースエンジンを使用するなど戦闘力が高くない中、モデナ9回、ララウリは8回決勝進出し、完走も7回とまずまずの成績を残しました。

2年目(1989年)は1台体制で臨んだものの、予備予選を1回通過したのみで、ドライバーが変わっても成績は一向に良くなることはありませんでした。

厳しい環境の中、なんと1990年に再び2台体制で挑戦を始めたのは驚きです。ロベルト・モレノとクラウディオ・ランジェスが持参金持ち込みで加入するも、モレノがアメリカGPで13位、これ以外で予選を通過した唯一のレースでは1周もできませんでした。

最終的には資金難により、ヨーロッパ外への遠征の渡航費用を捻出できなくなり、チームは消滅しました。

 

予備予選落ちから表彰台 レイトンハウス

©鈴鹿サーキット

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マーチのメインスポンサーであったレイトンハウスが名称変更したチーム。

マーチ時代から、新進気鋭のデザイナー、エイドリアン・ニューウェイの先進的なシャーシと、イタリアの若き天才イヴァン・カペリのドライブによって、1988年のマーチ・ジャッドは、当時他を圧倒する勢いであったマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナをポルトガルで、アラン・プロストを日本GPでぶち抜くという偉業を達成。

翌年89年は、グージェルミンが母国ブラジルGPで表彰台を獲得。翌年1990年は、レイトンハウスと名称を変更し心機一転臨みまひたが、予選落ちしたかと思えば表彰台といったように、マシンセッティングがセンシティブで難しく、思ったような成果は得られなかったのです。

そのためチームは、異才のエンジンデザイナー、マリオ・イリエンによる超軽量イルモア・エンジンを獲得。エイドリアン・ニューウェイとのコンビは、現在のF1マシン作りにおいても最高のコンビでした。

しかしながら、熟成不足によるエンジントラブルが絶えず、メルセデスの新鋭カール・ヴェンドリンガーを乗せるも結果を出すことが出来ず、それに追い打ちをかけるようなバブルの崩壊により、F1チーム・レイトンハウスは消滅しました。

 

AGS

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1989年 AGS JH23(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

AGSは1986年から1991年までF1に参戦していたフランスのレーシングチームです。86年にスポット参戦、翌87年から1台体制ながらフル参戦を果たし、シーズン途中でロベルト・モレノを起用。最終戦オーストラリアでは完走9台のサバイバルレースを走り切り、6位入賞。チームに初ポイントをプレゼントしました。

チームのピークは1989年。2台体制となります。各チームともNAへの移行、ハイテク装置の実験等トラブルが多く、その間隙を縫って予選を通過するばかりかグリッド中段をゲットし、決勝でもガブリエル・タルキーニのメキシコでの6位入賞を初め、アメリカでの7位、サンマリノでの8位とシーズン序盤は絶好調でした。

1991年、150億円もの借金を抱えながらF1に参戦。しかし日本やオーストラリアへの遠征費用を調達できず、シーズン途中での撤退を余儀なくされたのです。

F1撤退後、代金を支払い講習を受けるとF1マシンをドライブできるF1事業なるものを始めています。

 

非力なマシンを扱い、成績を残したドライバー達

全戦予備予選落ちから這い上がり、鈴鹿で3位表彰台 鈴木亜久里

©鈴鹿サーキット

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予備予選で真っ先に語られるドライバーといえば鈴木亜久里。1989年にザクスピード・ヤマハからF1フル参戦を開始しますが、マシンの戦闘力は乏しく、そのシーズンの全16戦全てで予備予選落ちという不名誉な記録を作ってしまいました。

しかし翌年はラルースに移籍。日本GPでは見事3位表彰台を獲得し、日本のファンに大きな感動を与えました。

 

みんなに愛された苦労人 ロベルト・モレノ

1991年:ベネトンB191・フォード(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

1991年:ベネトンB191・フォード(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

1959年生まれのブラジル人で82年オランダGPでロータスから出場。速いがいいマシンに乗せてもらえないばっかりに成績が伴わず、やっといいチームに巡り会えたと思ったら、売り出し中の新人にシートを奪われてしまい、そして結局はまた弱小チームを渡り歩いてきた苦労人です。

天才ドライバーを次々と輩出してきた国、ブラジルからやってきたロベルト・モレノもまた、そうしたグランプリの悲哀をイヤというほど味わわされているドライハーの1人なのです。

戦闘力の極端に低いAGSでF1デビューを飾り、最終戦でこの弱小チームに6位1ポイントをもたらしたが、翌年はどのチームとも契約できず国際F3000へと舞い戻り見事にチャンピオンを獲得しました。

©鈴鹿サーキット

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再びF1に復帰しますが、所属するのはコローニ、ユーロブルンと、どれもAGSと似たりよったりの極貧チーム。もっと悪いことに、エントリ-台数が増えたため、今度は予備予選すら通らないレースが続きました。

彼にやっとのことで転機が訪れたのは90年、ヘリコプター事故に遭ったアレッサンドロ・ナニ-二の代わりに、ベネトンで走った日本GP。このレースで彼は、尊敬する母国の先輩ネルソン・ピケとともに見事なワンツー・フィニッシュを達成。

©鈴鹿サーキット

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パドックで顔をクシャクシャにして泣きながらピケと抱き合う姿は名場面として、みなさんの記憶に残っているのではないでしょうか。

この結果がフロックでないことは、翌年シーズンに彼が残した成績で分かります。引き続きベネトンのステアリングを握ることを許された彼は、持ち前の職人気質で安定した走りを見せ、チームにとって十分なリザルトを残しました。

ところが、イタリアGPの直前になって、彗星のごとく現れたミハエル・シューマッハにそのシートを奪われると、再びモレノは奈落の底へと突き落とされます。結果的にはベネトンでの都合数カ月あまりのシーズンが、彼にとってドライバ-人生最良の日々となりました。

チームを転々とした後、インディカーに転向するものの、相変わらず弱小チームを渡り歩いたり「代打屋」的使われ方をされていましたが、言い換えれば、困ったときに頭に浮かぶというのは、彼が頼りがいのある職人であるからなのです。
チームに恵まれなかったモレノですが、彼の卓越した才能は彼の笑顔と一緒に皆の心に残っています。

 

54歳になっても熱い走りは健在! ガブリエル・タルキーニ

1962年生まれ、87年にデビューしたイタリア人ドライバー。
実力だけで勝負できる腕を持っていながら、なかなか結果を残せないでいるドライバーの中でも、タルキーニのそれは群を抜いているのではないでしょうか。

Photo by Tomohiro Yoshita

Photo by Tomohiro Yoshita

それは過去のレース戦歴からも明らかで、オゼッラ、コローニ、AGS、フォンドメタルと、見事なまでに弱小チームを渡り歩き、予備予選を通るのがやっとというマシンの性能をドライビングでカバーし、少ない戦闘力を最大限に引き出していました。

特に顕著だったのが、AGSでのメキシコGP。ここで彼は、予選を通過するばかりか、なんとポイントまでチームにもたらしてるのです。状況とチームから考えられる最高のパフォーマンスでした。マシンの性能にかかわらず常にベストをつくし、その中で満足感を得ていく。それがタルキーニのスタイルなのです。

タルキーニはその才能を十分に評価されながら、F1のシートから見離され、翌年以降はツーリングカーへと転向します。

Photo by Tomohiro Yoshita

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もちろん、ここでもタルキーニの運転のうまさは輝いていました。イギリスツーリングカー選手権でアルファロメのワークスドライバーとして活躍。開幕から5連勝してチャンピオン獲得。職人のドライビッグは少しも衰えを見せず、違うカテゴリーで存分に発揮されていたのである。

ツーリングカーの最高峰、WTCCでは2009年に最年長で世界王者になり、その後ホンダワークスで活躍、今年からロシアのラーダで活躍しています。

「当時のマクラーレンやウイリアムズのマシンに乗っていたらどれくらい速かっただろう」と想像した人も多かったのではないでしょうか。

 

レイトンハウスでおなじみ イヴァン・カペリ

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写真中央のレイトンハウスカラーのマシンがカペリ(©鈴鹿サーキット)

1963年生まれのイタリアドライバーで85年からスポット参戦し、87年からフル参戦を果たします。彼を語る上で外せないのが88年~90年シーズン。

88年ポルトガルGPや、日本GPで、ノンターボのジャッドエンジンであるにもかかわらず、当時最高のマシン、エンジン、ドライバーを有するマクラーレン・ホンダを抜いたことは覚えている方も多いのではないでしょうか。(日本GPではその後すぐ抜き返され、結局マシントラブルでリタイヤとなる)また、90年フランスGPでも、レースの最後までトップを快走し2位表彰台を獲得しました。

そして、カペリはレイトンハウス撤退の翌年、アルボレートに次ぐ久々のイタリア人フェラーリドライバーに抜擢されましたが、イタリア人のため過大なプレッシャーを受けてしまい、成績を残すことができず、シーズン途中でクビになってしまいました。

「もし、この世界が才能だけで勝ちあがっていけるのなら、カペリは間違いなく既にチャンピオンになっているだろう。」これはカペリがフェラーリに入る前に、ニキ・ラウダがカペリのことを評した有名な言葉です。彼以外にも、新人のころからカペリの才能を評価する人は多くいましたが、「才能だけではワールドチャンピオンになれない」というF1の厳しさが伝わる言葉でもありますね。

1991年のカペリ(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki)

1991年のカペリ(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki)

チーム体制は不安定で、成績にも波がありましたが、レイトンハウスのスタッフとは家族同然の絆ができていました。だから他の有力チームからの誘いも断ってきたのです。カペリの義理人情に厚く、人との出会い、絆を大切にする素晴らしい人間性が、F1での成功を阻んだのかもしれません。彼が成功するには、ある種の狡猾さ、エゴが必要だということをニキは言いたかったのではないでしょうか。

 

持参金なしでF1に乗った日本人 服部尚貴

©鈴鹿サーキット

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「はっちゃん」の愛称でおなじみの服部尚貴選手。ダートトライアルがデビュー戦でそこからフォーミュラでトップドライバーになるという変わった経歴で、数多くのカテゴリーで戦ってきたレーサーです。

1991年にコローニからF1日本GP、オーストラリアGPにスポット参戦しましたが、戦闘力の低いマシン、さらにトラブルにも見舞われ、予備予選を通過することができませんでした。普通ドライバーは持参金を持ってチームに交渉を行うのですが、交渉してギャランティーや交通費も出させたと言われています。F1への参戦はこの2戦のみとなりました。

フォーミュラからGTカーまで幅広く活躍し、引退後はスーパーGTのオブザーバーやカーオブザイヤーの選考員などマルチに活躍されています。

 

まとめ

もっともF1が華やかだった時代は、夢のF1世界に飛び込んだ人、チームがたくさんいた時代でもあります。お金の規模が違うF1の世界でアイデアを振り絞り、無駄を無くし、資金調達に奔走するも予選にすら進めない。

過酷で厳しい予備予選ですが、夢を持って全力で頑張る大人達の戦場は、儚くも美しいものでした。

アイデア満載のマシン、成績だけでは語れないドライバー達。モータースポーツの中心にいるのは人間で、それが最大の魅力なのですが、まさに予備予選もモータースポーツの魅力、厳しさを詰め込んだ世界だと思います。

今回紹介したマシン達にはワークスチーム、トップチームにはない美しさがあります。F1はフェラーリやマクラーレン、ウイリアムズだけではありません。

あの時代のF1を振り返る時に予備予選やそこで戦ったマシン、ドライバーを思い出すと、また一味違ったF1の楽しみを味わえるかもしれませんよ。