日本の大人気4輪レースカテゴリーSUPER GTをはじめ、国内や海外のレースに参戦し、活躍し続けるだけでなくファッションブランドや雑誌のモデルまで務め、マルチな才能を発揮する現役レーシングドライバー”横溝直輝”。モータースポーツの枠に留まらず、色々なフィールドで活躍し、挑戦し続けるその素顔に迫りたいと思います。
横溝直輝ってどんな人?
1980年6月27日生れのA型、神奈川県出身の現役レーシングドライバー横溝直輝選手。
3歳の頃にレース好きの両親に連れられて行った富士スピードウェイで、初めて見た時速300km以上で走るマシンのスピードと爆音に圧倒されると同時に感動し、レーシングドライバーになる事が将来の夢となりました。
それは、保育園の卒園アルバムにも「レーサーになる!」と書いた程、強い想いだったそうです。
その後9歳からカートに乗り始め、13歳でカートレースデビュー!
初めて参戦した大井松田SLシリーズSCストッククラスでチャンピオンを獲得します。
1995年からは、地方カート選手権FR-2クラスにフル参戦を開始し、翌1996年には全日本カート選手権にステップアップ。
着々とキャリアを積み上げていきました。
そして1999年遂にフォーミュラ・トヨタで4輪レースデビューし、2001年にはシリーズチャンピオンに輝きます。
プロフィールの経歴だけ見ると、最初から順風満帆かに見える横溝選手のレーシングドライバーとしての道。
しかし、プロのレーシングドライバーとして成功を掴めるのはたった一握りにも満たない厳しい世界なのです。
いったいどんな道のりを経て、現在の場所まで登り詰めて行ったのでしょうか。実際に聞いてきました。
横溝直輝レース戦歴
1993年 | カートレース デビュー デビュー戦優勝 |
1994年 | SL大井松田カートシリーズSCクラス チャンピオン/ SL全国大会4位 |
1995年 | 地方カート選手権 関東西に参戦 |
1996年 | 全日本カートFA選手権参戦/鈴鹿カートシリーズ スポット参戦優勝 |
1997年 | 全日本カートFA選手権参戦/鈴鹿カートシリーズ シリーズ3位 ワールドカップICAクラス参戦(ポールポジション~決勝1位走行中エンジントラブルによりリタイヤ) |
1998年 | 全日本カートFSA選手権参戦/ワールドカップイン鈴鹿参戦 |
1999年 | フォーミュラ・トヨタシリーズ スポット参戦 決勝9位 |
2000年 | フォーミュラ・トヨタシリーズ 参戦シリーズ3位(優勝1回) |
2001年 | フォーミュラ・トヨタシリーズ 参戦シリーズチャンピオン (年間最多勝10戦中6勝、ポールポジション4回獲得) |
2002年 | トムスより全日本フォーミュラ3選手権に参戦 シリーズ7位 |
2003年 | インギングから全日本フォーミュラ3選手権に参戦 シリーズ5位 マカオグランプリ参戦 |
2004年 | インギングから全日本フォーミュラ3選手権に参戦 シリーズ3位 (日本人ドライバー最高位) PP3回 優勝1回 マカオグランプリ バーレーングランプリ参戦(ともに世界選手権) |
2005年 | スリーボンドから全日本フォーミュラ3選手権に参戦 シリーズ4位 PP3回 優勝3回 マカオグランプリ参戦 クラフトからスーパーGT選手権(トヨタスープラ)に参戦 |
2006年 | BOSS・INGINGから全日本フォーミュラ・ニッポン選手権に参戦 ハセミモータースポーツからスーパーGT選手権(フェアレディZ)に参戦 |
2007年 | BOSS・INGINGから全日本フォーミュラ・ニッポンに参戦 スーパーGT選手権に参戦 |
2008年 | KONDO RACINGから全日本フォーミュラ・ニッポンに参戦 ハセミモータースポーツからGT500クラスでスーパーGT選手権に参戦 第7戦でポールトゥウィンを達成 十勝24時間耐久レースに参戦 クラス優勝達成 |
2009年 | スーパー耐久シリーズ シリーズ2位 優勝2回、ポールポジション2回、7戦中5戦で表彰台を獲得 将来のレーシングドライバーを目指す子供たちを応援するため、 子供育成カートチームを始動 |
2010年 | モーラからスーパーGT選手権に参戦 シリーズ6位 第二戦で優勝 二回の表彰台 JAFスプリントカップ GT300クラス 3位 |
2011年 | サンダーアジアからSUPER GTシリーズに参戦 東海大学ルマンプロジェクトよりASIAN LEMANS LMP1クラスに参戦 |
2012年 | エンドレスタイサンからSUPER GTシリーズに参戦(シリーズチャンピオン GT300クラス) |
2013年 | エンドレス剣タイサンからSUPER GTシリーズに参戦 TAISAN KEN ENDLESSからAsian Le Mans Seriesに参戦(シリーズチャンピオン GTEクラス) フィールドモータースポーツからスーパー耐久・ST-Xクラスに参戦 Taiwan TSF Asia All Star Challenge 亞洲全明星挑戰賽 で総合優勝 |
2014年 | STP TAISAN GAIAPOWERからSUPER GTシリーズに参戦 GAIA POWER BMWからスーパー耐久・ST-Xクラスに参戦 |
横溝直輝インタビュー
モータースポーツの世界へ
ーーー レーシングドライバーを目指したきっかけは?
両親と幼い頃に富士スピードウェイにレースを観戦しに行ったことがレーシングドライバーを目指したきっかけです。
神奈川県の秦野市に住んでいたので、御殿場までは30〜40分くらいで行ける距離という環境が良かったですね。
初めてサーキットで見たレーシングドライバーがかっこよかった。
それが野球だったりサッカーだったりしたら、もしかしたらそっちを目指してたかもしれないけど、最初に見たスポーツがレースだったので、そこに憧れを抱いたんです。
それが3〜4歳の時で、漠然とレーサーになりたいなと思ってました。
ーーー 幼少時代に描いた「レーサーへの夢」その為にまず何をしましたか?
小学校3年生くらいになると、ちょうどセナとかプロストとかっていう、日本のF1ブームがやってきたんです。
その頃から、F1ドライバーになるにはセナのようにゴーカートをしないとダメという話があって、それでゴーカートをやりたくなって。
これも環境が良かったんだけど、家から20分ぐらいのところに大井松田カートランドっていうのがあって、それが全てだったかもしれないですね。
そこですぐにカートに乗れる環境があったんです。
例えばプロ野球選手になりたいって言っても、ボールとバットがなかったらその子は絶対プロ野球選手になれないでしょ。
どうやったら野球を覚えられるのっていう話になる。
だけど、日本もそういう子達がたくさんいると思うのね。
レーサーになりたくてもカートができないから。
そういう意味で僕は、すぐにでも練習ができるカートコースが近くにあって、そこでスタートできたっていうのは本当に恵まれてました。
ーーー そんなF1ドライバーに憧れてカートを始め、そのままレースの世界へ?
僕の時は12歳からじゃないとカートレースに出られなかったんです。
子どもクラスというのがなくて、大人に混じるの。
子ども用カートがないから、12歳っていっても足が届かない。
だから、座布団をシートの後ろにつめて、大人と同じ重りに合わせないといけないから、30kgぐらいの鉛を溶かして、ゴーカートにつけられるようにして重りをつけて、それで大人と一緒にレースをしたんです。
これで親が勘違いしたんだけど、初めてのレースで優勝しちゃったの。大人たちに混じって優勝して。
その時、子どもがカートに乗ってるっていうのはまだそんなに有名じゃなかったので、そのレースの後、テレビとか取材がたくさん来たんだよね。
ぼくの一番最初のテレビデビューは「ビートたけしのTVタックル」。
12歳で、英才教育っていうテーマで両親と一緒にカートで出演したんです。
そこからカートの時代があって。最終的には全日本カートで一番最高峰までやりました。
モータースポーツとの出会いはレース好きの両親によるもの。
そして芽生えた3~4歳の頃からの夢を現在まで持ち続ける。
その真っ直ぐな思いの強さが、今でも新しい事に挑戦し続ける横溝選手の強さの元なのかもしれません。
レーシングドライバーへの道
ーーーカートから4輪にステップアップしたきっかけは?
カートのワールドカップっていうのも出て、鈴鹿で出場した時にポールポジションを獲って。
その時はアロンソもいたし、今有名な人たちが結構出てたと思うのね。
そういうのがあって、18歳になってすぐにフォーミュラ・トヨタにステップアップして。
その時、フォーミュラ・トヨタに1レースエントリーするのがだいたい120万円。
安くて120万円ぐらいかかったの。
そのときはスカラシップ制度とかなかったから、ガソリンスタンドで働いたり、いろんなバイトをしながら親にもお金借りたり、親に銀行で借金をしてもらったりしながらレースに出てました。
初年度は400万円ぐらい借金したのかな。
なんだけど、フォーミュラ・トヨタは優勝すると賞金があって、シリーズでも賞金があって、1回レースで優勝すると60万円の賞金があったの。
で、ギリギリなんとか1年間出て、それで1勝を含むシリーズ3位だったんです。
ーーー 資金繰りに苦労しながらもレースを続け、結果を残していったと。その資金不足はどのくらい続きましたか?
翌年に、この借金を残してきついな…と思ってる中で、当時はすごく勢いのあった英会話のNOVAがスポンサーしてくれて。
英会話のNOVAのレーシングチーム、スーパーノヴァからサポートしてもらったんだけど…、僕のカート時代からのお兄ちゃんが立川祐路で、立川選手がスーパーノヴァにサポートしてもらってたんです。
そこから僕も知り合って、スーパーノヴァのボスの息子のカートの先生を僕がやってたの。
その影響で「先生も一生懸命やってくれてるから、フォーミュラ・トヨタ、1年間出させてあげるよ」っていう約束をもらって。
フォーミュラ・トヨタでスーパーノヴァから1年間、全部お金をサポートしてもらえたんです。
それで年間6勝して、シリーズチャンピオンを獲って。
その6勝っていうのも、20年間フォーミュラ・トヨタが開催された中で1番の最多勝なんですよ。
20年間のうちで6勝できたのは俺と関口雄飛しかいないんじゃないかな。
雄飛も6勝してるかどうかわかんないけど。
そうすると、年間6勝で360万になるんですよ。
ほかの表彰台も含めて年間チャンピオンを獲ると700万の賞金。だから1200万ぐらい稼げた。
それはほとんどスーパーノヴァにお返しするって感じだったから、スーパーノヴァも、ほぼスポンサー費なしで1年間露出ができて、双方にとって良いい関係になれたんです。
相変わらずバイトは必死でやってたので、銀行への借金をすべて帳消しにできて。
あと、フォーミュラ・トヨタでチャンピオンを獲ると、トヨタのスカラシップ制度があって、無償でトムスのF3に乗れたんです。
その時点でトヨタがF1の日本人育成プログラム、今のTDPをスタートしたんです。
それの片岡・平中組に後乗りで入って、当時はFTRSって名前だったんだけど、今で言うTDPの第一期生に抜擢されたのね。
第一期生が片岡、平中、横溝。それでトムスF3に参戦しました。
2年目、3年目はインギングっていうところに移籍して、横溝直輝とロニー・クリンタレッリでF3を戦いました。
2004年は日本人では僕がF3で1番だったかな。
今思えばすごいメンバーでした。チャンピオン、ロニー、2位オリベイラ、3位横溝直輝、4位リチャード・アンティヌッチって今アメリカで活躍してる選手で、5位中嶋一貴、6位山本左近、7位柳田真孝…と、その当時一緒に戦ったドライバー達は今でも活躍してる。
アルバイトの掛け持ちや借金などをしながらも、必死でカート、フォーミュラー・トヨタなどのレースに参戦し続けた横溝選手。
決して楽な道では無かったと思います。
そんな苦しい状況でも確実に結果を残す。そこに、彼の意志の強さと断固たる決意を感じます。
その諦めない姿勢が、後のチャンスを引き寄せていくのです。
スーパーGTへ
ーーーその後、F3からスーパーGTへステップアップしたきっかけは?
翌年、当時これもあり得ない話なんだけど、F3ドライバーでいきなりトヨタのGT500に抜擢されたの。2005年に。
それがル・マンで優勝したばかりの荒さんと組んで、バンダイがメインでスポンサーしてくれて、BANDAIスープラでいきなりGT500デビュー!
正直言って何がなんだかわかんなかった。
ーーー 何がなんだかわからない状態で、GT500に抜擢されて、トヨタからニスモへ移籍したきっかけは?
そう!F3はスリーボンドっていうところに移籍したのね。
スリーボンドでF3を戦って年間3勝して、スリーボンドもこれからっていうチームで、年間3勝もしたことがなかったから、いろいろなエンジンの開発をさせてもらいながら一定の成果をあげることができたのね。
そこからまた変わっていくんだけど、2005年から2006年のときに、トヨタのGT500に乗っていて、スリーボンドで日産エンジンでF3を戦ってたことによって、2006年は突然移籍になって、日産ニスモと契約することになった。
1月入ってから急にニスモの柿元さんから電話かかってきて。「横溝くん、きみ明日マレーシア来れるかい?」「はい、行きます。」って。
ーーーマレーシアに呼ばれたときの心境は?
まったくわかんない。「はい、行きます」って。
じゃあチケット用意するからって、ビジネスクラスのチケットが送られてきて。
エコノミーしか乗ったことないんだけど…。(笑)
で、マレーシアに行ったら、「ちょうど1人乗れなくなってしまった500のドライバーがいるので、君をオーディションするよ」と、言われたの。
それで実質10周くらい走ったんだけど、そこでのタイムを評価してもらって、翌週には日産ニスモと契約して。GT500。
それがイエローハットでハセミモータースポーツさんっていうところから契約になって、オリベイラと組んだのね。
500でいきなりデビュー2戦目の予選1回目でポールポジションとったりもして。
2006年はその500が決まった5日後ぐらいにF3を乗ろうとしたの、俺は。
それが、いきなりインギングの卜部社長から電話がかかってきて、「おまえフォーミュラニッポン乗らないか」って言われて、「乗ります!」で、GT500とフォーミュラニッポンも決まったの。
2006年、2007年と、そのへんはレースを見てもらって。
2008年はロニーとイエローハットでGTRで組んだんです。で、もてぎで2人そろって初めてのGT500優勝できて、フォーミュラニッポンも近藤さんとこで走って…。
本人も状況が理解できないほどのトントン拍子でのステップアップ。
しかし、それは決してただのラッキーではなく、横溝選手の努力の賜物だったのだと思います。
そして、与えられたチャンスを逃さず、つかみ取る実力。
それこそが、レーシングドライバーとしてかなり重要な才能ではないでしょうか。
まとめ
日本のトップレーシングドライバーとしてだけではなく、ファンション業界やモデル業界、実業と、マルチに活躍する横溝選手。
多くの人が憧れる職業を全て手にしたかのように見えるその道筋を、本人へのインタビュー形式で紹介していくこのシリーズ。
今回は前編という事で、横溝選手とレーシングドライバーという職業との出会い。
そして、レーサーを志す多くの人が1度はぶつかる資金という大きな壁をどう超えてきたのか。その先にあったものは。
そんな”横溝直輝”の始まりについて、クローズアップしてみました。
ここまでトントン拍子とも言える順調すぎる流れに待ったをかける出来事、そして、その新たな壁をどう乗り越えてきたのか。
次回はその部分に焦点をあてていきたいと思います。
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