大人気だった名車ケンメリGT-Rが姿を消して16年。長い年月を経て、復活を遂げたR32型スカイラインGT-Rとはどのような車だったのでしょうか?
R32以前~過去の栄光としがらみと
1972年9月、ケンメリと呼ばれた4代目スカイラインにモデルチェンジして約4か月後の1973年1月に追加されたGT-Rですが、3か月後の4月に197台(注:プロトタイプ2台を含む公式発表数)の生産をもってラインナップから姿を消してしまいます。
姿を消した理由としては、表向きは「排ガス対策に全力を挙げるため」でしたが、実際のところは「大きく重たくなったボディではマツダのロータリー軍団には勝てない」「S20をこれ以上改良しようがない」ということでした。
以降はGT-Rの残り香を拠り所に「スポーティーなラグジュアリーカー」として生き残っていく道を選びましたが、それは販売側の意向で、開発責任者の櫻井眞一郎氏の理想はハコスカであり、実はケンメリへのモデルチェンジも本意ではありませんでした。
その後1977年にジャパン(C210)へ、1981年にニューマン(R30)へとモデルチェンジを重ねていくごとにハコスカに寄せていくのですが、ケンメリ時代の約40万台という生産台数ピークから漸減していきます。
その理由は、販売側は「走り重視の車は時代遅れ」とし、「都会的でスマートな車」…要するにトヨタのマークⅡ・チェイサー・クレスタのような車にするよう求めていた事でした。
そして1985年8月にデビューした7代目、R31型は販売側が望む「マークⅡのような車」であったにも係わらず発表と同時に大ブーイングを浴び、先代R30のキャッチコピー「史上最強のスカイライン」をもじり「史上最悪のスカイライン」と呼ぶ人まで出るようになってしまったのです。
屈辱と再生への誓い
この時批判の矢面に立っていたのが伊藤修令(いとう ながのり)氏、R31型の開発責任者でした。
しかし実際には開発当初より櫻井氏が関わっており、終盤に差し掛かった1984年12月に心臓疾患で入院を余儀なくされたことによって急遽代役として任命された伊藤氏は、運輸省(現・国土交通省)への認可書類の提出などしか行っておらず、批判が浴びせられた時には「俺が作ったんじゃないんだけどな…」と思っていたそうです。
あまりの批判の凄さに「何とかしなきゃいけないな」と思いながら次世代のスカイラインの構想を練っていた所、1985年より開始されたグループA規定での全日本ツーリングカー選手権の最終戦、富士スピードウェイで行われたインターTECを観戦。
観戦理由も「まぁスカイライン担当だし、一応見ておくか」という程度のものだったそうですが、国産車最速だった筈のスカイラインが海外勢のボルボ240Tにぶっちぎられるどころか、同じ国産勢の三菱・スタリオンにすら負けるという事態を目の当たりにし、「すべての車をぶっちぎる世界最強のツーリングカーにしてやる」と決意。
ここにGT-R復活の狼煙が上ったのでした。
目標は「世界制覇」
まず肥大化したボディを小型化することから始まり、901活動により新世代の足回りとして開発されていたマルチリンク方式を採用。
そして中東向けに設定されていたRB24S型2400ccシングルカムエンジンをベースにエンジンヘッドをシングルカムからツインカムに換装し、ツインターボ化。
こうしてGT-Rの基本構想は出来上がっていったのですが、仮想敵であるフォード・シエラRS500を倒し、数年間優位に立てる出力として目標馬力600ps以上と設定したものの、レース部門を担当しているニスモ側から「そんなに馬力が出ていたのではタイヤが持たない」という意見が出されたのでした。
というのもグループAの規定は、500cc刻みで設けられたクラスごとのタイヤ幅の設定が絶妙で、排気量ごとの想定出力対しタイヤのキャパシティが少ないサイズ設定になっているので、パワーがあれば勝てるという訳では無かったのです。
そんな時、別の開発部隊から「新型の四輪駆動車が良さそうだ」という情報が入り、見てみるとポルシェ959の前後トルク配分可変型4WDを参考にした、基本的にFR駆動でありながらリアタイヤがスリップしだすとフロントへも駆動力を分配する「アテーサE-TS」が出来上がっていたのです。
試しにR31型スカイラインに搭載しテストしたところ違和感もなく、雨のサーキットでとあるレーサーに4WDであることを隠して乗ってもらったところ「よくできたレインタイヤだと思った」というコメントを得た事から採用を決定しました。
そうなると車両重量が元々設定していた4000ccクラスに編入されても規定まで軽量化できないことから、最低重量とタイヤ幅の関係を改めて見直すことになり再検討する事に。
そして車両重量1240kg以上、タイヤ幅10.5インチ以下とする排気量4500cc以下のクラスが適当という結論に達し、該当クラスに編入される過給機係数1.7を掛けた場合の排気量が約2600ccであることから排気量のアップが決められました。
こうしてR32型スカイラインGT-Rの基本形が出来上がったのです。
「宿命」と「プレッシャー」を乗り越えて
1989年5月、R32型スカイラインがデビューしますが、その際に「8月にGT-R追加」と翌1990年からのグループA参戦が発表されたところ各自動車雑誌は騒然。
GT-Rが発売されると自動車雑誌だけではなく、一般向け男性誌でも特集するなど異例の盛り上がりを見せます。
そしてサーキットテストではそれまでの日本車どころか輸入車すら凌ぐ動力性能を発揮し、レースでの活躍に期待を持たせたのでした。
1990年、西日本サーキット(のちのMINEサーキット、現・マツダ美祢試験場)で行われた全日本ツーリングカー選手権の第一戦に、星野一義氏と鈴木利男氏が駆る「カルソニック・スカイライン」と長谷見昌弘氏とアンデルス・オロフソン氏が駆る「リーボック・スカイライン」の2台が参戦。
結果、3位以下を周回遅れにするぶっちぎりの勝利を飾り、ハコスカGT-R以来の「宿命」であり「義務」とされるデビューウィンを手にしたのでした。
それ以降フォード・シエラRS500で参戦していたチームもGT-Rに乗り換えはじめ、最終的にGT-Rの参戦していたクラス1はワンメイク状態となってしまいます。
そして、グループA規定で行われる全日本ツーリングカー選手権が終了する1993年まで、無敗の29連勝を飾ることになったのでした。
さらにマカオグランプリにも出場し、ぶっちぎりのポールtoウィン!
翌1991年にはベルギーのスパ・フランコルシャン24時間耐久レースにも優勝。
スカイラインGT-Rの名を世界に轟かせたのでした。
更には豪州日産の手によりオーストラリア選手権にも参戦し、「GODZILLA」とあだ名が付けられる程の強さを見せつけました。
もう一つのステージ、N1耐久
グループAで大活躍を始めたR32型スカイラインGT-Rですが、もう一つの戦いの場にも登場しています。
それは1990年から開始されたN1耐久シリーズ(のちのスーパー耐久)というシリーズです。
N1耐久とはグループAよりも改造範囲が狭いグループN規定により、エンジンやブレーキの大幅な改造が制限され、より市販車の素性が問われるシリーズでした。
そこにもR32型スカイラインGT-Rは登場し活躍を始めますが、1レースで500km以上走るにはブレーキの容量が足りませんでした。
そこで1991年のマイナーチェンジ時にその名もずばり「N1」というグレードを追加しますが、ブレーキの問題に根本的な解決がなされる事がなく、遂には’91年筑波9時間耐久レースでは三菱のギャランVR-4に優勝をさらわれる事態に。
それにより、翌1992年にはブレンボ製キャリパーを持ち、ローター径を大きくし、17インチホイールを装着したVスペック及びVスペックN1が登場。
これである程度ブレーキの問題にケリがついたR32型スカイラインGT-Rは勝ち数を重ね、最後のレースとなった1995年の第一戦では、このレースがデビュー戦となったBCNR33型スカイラインGT-Rのデビューウィンを阻止。
こうして無敵の帝王というイメージのまま姿を消したのでした。
アンダーグラウンド・キング、GT-R
そんな高性能なGT-Rに興味を持ったのは、レース業界の人たちだけではありませんでした。
当時は日陰の存在であったチューニングカー業界です。
それまで日産のL型3リッターのメカチューン仕様で250ps前後、ターボ仕様で約350ps、トヨタ7M-GTのフルチューンでようやく400psを超えて500psが見えてきたところに、ノーマルで280ps、マフラー換えて350ps、ブーストアップにCPU書き換えで400~450psというとんでもない出力を叩き出し、尚且つアテーサE-TSにより高速安定性もばっちりという夢のような車が登場したのですから、盛り上がらない訳がありませんでした。
2000ccターボのGTS-tタイプMの約240万円という車両価格に対し、445万円というバブル景気に沸く当時ですら高額な車両でしたが、この種の方たちはこぞって買い替え、夜の首都高、湾岸線、などに限らず日本全国各地の峠道や埠頭にも出没し、夜な夜な競争を繰り広げます。
このような違法改造車が多く出現した結果、2007年に発売されたR35型GT-Rの形式認定の際「違法改造車対策を施すこと」という異例の通達を受け、日産は改造車に対する縛りをきつくしたというエピソードまで生んでしまうほどでした。
そしてR32型スカイラインGT-Rの存在はある文化を生むことになります。
それは「首都高速トライアル」という映画シリーズです。
シリーズ第一作はR30型RSターボを題材にしていましたが、第二作以降はGT-Rが主役となり、内容も過激化していきます。
そして、最終作となる第五作の発売前、撮影時に道路交通法を犯していたことが発覚、関係者が逮捕されるという事態に至り、そのままお蔵入りしてしまう事になりましたが、近年海外向けにDVD化されています。
更に漫画「湾岸ミッドナイト」の連載開始。
こちらは作者の楠みちはる氏がR32型スカイラインGT-Rに乗った際「時代が変わった!これからはこういう車の時代になる、そして走りの改造車を題材にした漫画が受け入れられるかもしれない」と思ったことから描くことを決めたと話されています。
このように多方面へ影響を与える程のパワーがR32型スカイラインGT-Rにはあったのです。
まとめ
世界中で名を轟かせたにもかかわらず、基本的に日本国内専用車としてその生涯を全うしたR32型スカイラインGT-R。
後にゲームの影響もあり若年層にまでその名を轟かせ、現在では世界各地に輸出され、中には盗難されるなどして日本での数を減らしているのが現状ですが、どうか少しでも多く残され大事にされてほしいと願わずにおられません。
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