MotoGP™にmoto2クラスができて最初のレースで優勝したのは19歳の日本人ライダーでした。その名は富沢祥也。moto2クラスはすべてのマシンに同じエンジンを搭載することでイコールコンディションに近い状態が保たれています。そんなレースの初戦で優勝を飾るという、初代moto2クラスチャンピオンにもっとも近いライダーでした。しかし、シーズン途中にレース中の事故で帰らぬ人となり、MotoGP™関係者や多くのファンは深い悲しみを味わいました。富沢選手が亡くなって8年が経った今、もう一度彼の活躍を振り返りご紹介したいと思います。

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moto2クラスで才能が開花!富沢祥也とはどんなライダーだったのか

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富沢祥也(とみざわしょうや)は全日本ロードレース選手権(以下:全日本)、MotoGP™で活躍したレーシングライダーでした。
バイクに乗り始めたのは3歳のときで、きっかけはポケットバイクにのる子供の写真を見て、これに乗りたいと母親にお願いしたそうです。
そしてポケットバイクレースやミニバイクレースの全国大会で優勝するようになり、2005年に全日本デビュー。
両親は高校を休まないという条件で富沢選手の全日本フル参戦を許したので、平日は高校へ行くために十分なレースの練習ができませんでした。
しかし、全日本で初めて125ccクラスへフル参戦した2006年は、いきなりシリーズ2位となりMFJルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。
2008年には250ccクラスで2位に輝き、翌2009年にMotoGP™250ccクラスフル参戦を果たしたのです。
moto2クラス元年の開幕戦で見事優勝
#Best100Pics #MotoGP Shoya Tomizawa, primer ganador de un Gran Premio en Moto2. Fue en Qatar 2010. DEP Samurai 48. pic.twitter.com/8ADRERpEPR
— JESUS SANCHEZ SANTOS (@JesSanSan) 2013年8月17日
富沢選手は、初めてのMotoGP™250㏄クラスフル参戦となった2009年にランキング17位で終了するというほろ苦い結果を経験しています。
また翌2010年は、250ccクラスが無くなり新たにmoto2クラスが新設されました。
マシンは各コンストラクターが製作するフレームにMotoGP™運営側から供給されるホンダ製600cc4ストローク4気筒エンジンを搭載したものを使用。
250ccクラスと違い、供給されるエンジンが統一されエンジンカスタムが禁止となっているため、マシン性能に差が生じにくく、それまでよりもよりイコールコンディションで争えるレースになりました。
そしてmoto2クラスで最初のレースとなった2010年シーズン開幕戦カタールGPで、富沢選手はなんと優勝を獲得。
2009年の最高リザルトが10位だった富沢選手がmoto2クラスに変わって、いきなり優勝したことは誰もが予想だにしていない驚くべき快挙。
さらに次戦スペインGPでは2位に入り、富沢選手はmoto2クラス初年度のシリーズチャンピオン候補になったのです。
富沢祥也のこれまで成績

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全日本ロードレース選手権
シーズン | クラス | マシン | チーム | シリーズランキング |
---|---|---|---|---|
2005年 | GP-mono | – | – | 4位 |
2006年 | GP125 | ホンダRS125 | FRS | 3位 |
2007年 | GP125 | ホンダRS125 | TeamProjectμFRS | 3位 |
GP250 | ホンダRS250 | TeamProjectμFRS | 8位 | |
2008年 | GP250 | ホンダRS250 | TeamProjectμFRS | 2位 |
MotoGP™(ロードレース世界選手権)
シーズン | クラス | マシン | チーム | シリーズランキング |
---|---|---|---|---|
2009年 | 250cc | ホンダRS250 | CIP Moto – GP250 | 17位 |
2010年 | Moto2 | Suter | TechnoMag-CIP | 13位 |
悲劇となった2010年ミサノGP

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2010年9月5日、富沢選手はイタリア・ミサノサーキットで行われたMotoGP™第12戦サンマリノGP・moto2クラスで8番グリッドを獲得します。
トップから0.785秒差だったため、決勝で優勝できる可能性は十分ありました。
その決勝レースでは4周目でトップに立ち、その後もトップ争いを展開。
しかし、富沢選手は12週目にスリップダウンし、時速200キロを超えるスピードで転倒してしまいます。
そしてその直後、後ろを走行していたアレックス・デ・アンジェリス選手の車両が転倒した富沢選手の身体に激突し、さらにスコット・レディング選手も富沢選手にマシンで乗り上げる形で転倒してしまうという多重クラッシュ。
転倒した富沢選手はピクリと動くことなく、駆けつけたコースマーシャルによりタンカーで運ばれ、人工呼吸などの処置を受けながら2名の医師とともにサーキットからリッチョーネ市内の病院に搬送されました。
その後、病院で緊急処置が施されたものの、息を吹き返すことはなく現地時間の14時20分(日本時間21時20分)に死亡を確認。
クラッシュした際の身体のダメージが激しく、首・肩・腰・大腿骨などを骨折しており、死因は大動脈破裂とされました。
皮肉にも、このレースの前日には来シーズンも同チームで走る契約の更新が成されていて、成長著しく明るい性格でチームのムードメーカーだった富沢選手が亡くなったことに、チーム関係者やライバル選手の多くが惜しみ、悲しみに包まれた一戦となってしまったのです。
ロレンソ選手が富沢選手のヘルメットデザインで出走

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当時MotoGPクラス・ヤマハファクトリーのライダーだったホルヘ・ロレンソは富沢選手と仲がよく、富沢選手の死に対し相当悲しんだライダーの1人でした。
ロレンソ選手は、富沢選手がいつも明るくみんなを笑わせてくれ、彼を嫌うライダーはいないだろうと語っており、チームスタッフや他のライダーからも愛される存在だったことを明かしています。
そしてロレンソ選手は次戦アンゴラGPで、富沢選手と同じデザインのヘルメットを着用し、レースに出走。
彼がなしえなかったMotoGPクラスでの優勝を自らが成し、表彰台の一番上に富沢選手と同じデザインのヘルメットを掲げようとしたのです。
しかし、残念ながらレースではロレンソ選手は4位となり、表彰台に上がることはできませんでした。
その後ロレンソ選手は、自らが使用した富沢選手と同じデザインのヘルメットを日本GPのときに彼の家族に渡したそうです。
中上貴晶が富沢選手へ掲げた2013年ミサノGPでの2位
Rememorando #Misano 2013 #Moto2 Victoria de @polespargaro acompañado en el podio por Nakagami y Rabat. pic.twitter.com/4Hw8EnmgFA
— Martin Sanchez (@MartinoMoto) 2015年9月8日
富沢選手と中上選手はレースを開始した時期からのライバルでした。
同じ千葉県出身で年齢も2歳しか違わず、幼少期に出場していたポケットバイクやミニバイクのレースでは常に、この2人のトップ争いが展開されていたそうです。
2006年全日本ロードレース選手権GP125クラスではシリーズタイトルを中上選手が獲得し、富沢選手は2位。
翌2007年は中上選手はスペインに渡りCEVに参戦し、富沢選手は全日本のGP125とGP250のダブルエントリー。
中上選手は富沢選手より先にロードレース世界選手権(MotoGP™)125ccクラスへフル参戦を果たしますが、moto2クラスへのフル参戦は富沢選手の方が先でした。
そんな中上選手が富沢選手の死を知ったのは、MotoGP™から全日本に戻り、ST600クラスにフル参戦している時。
そして中上選手がMotoGP™(moto2クラス)へカムバックした2013年シリーズ第9戦サンマリノGPでは、富沢選手が3年前に亡くなったミサノサーキットで絶対に勝ちたいという強い気持ちがあったそう。
しかしレースの結果は2位。
それでも十分といえる結果でしたが、中上選手は絶対に富沢選手に優勝をおくりたいと思っていたため、レースが終わってからその場にいた富沢選手の母・有希子さんに「勝てなかった、ごめん…。」と謝罪の言葉を告げたそうです。
まとめ

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MotoGP™moto2クラスに上がってから、驚くべきスピードで才能を開花させた富沢選手。
2010年ミサノGPのクラッシュがなければ、今頃moto2クラスの歴代チャンピオンに名を残していたかもしれません。
しかし、バイクレースは常に死と隣り合わせのスポーツ。
ヘルメットやいたるところにプロテクターがついたレーシングスーツを装着しても、生身で操るバイクという構造上限界があります。
2018年からは、新開発のエアバッグが搭載されたレーシングスーツの着用が義務化されましたが、死に至るほどのクラッシュから完全にライダーを守り切れるとはいえません。
それだけライダーが死と隣り合わせの領域で戦っており、富沢選手のクラッシュは、改めてその事を考えさせられました。
ライダー達がテールtoノーズの接戦を繰り広げている姿は、見ている我々を楽しませてくれますが、無事にレースを終えてほしいという願いも頭の隅に置いておく必要があるのです。
そして富沢選手の勇士を、いつまでもバイクレースファンとして心に留めておきたいと改めて深く感じました。
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