有名バイクショップSP忠男の代表取締役である鈴木忠男氏は、幼い頃から大のバイク好き。10代中盤からモトクロスのレースに出場していました。そして、当時日本のトップオートバイメーカーの1つであったトーハツやヤマハのワークスライダーとして圧倒的な速さを見せつけ、大注目。モトクロスレースにおいて数々の伝説を作ってきました。現在はSP忠男の代表として店舗の運営や、オリジナルマフラーの製作に勤しんでいますが、ここでは鈴木忠男氏がモトクロスライダー現役時代に残した伝説をご紹介します。
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目玉マークでおなじみの忠さん!巣立ったライダーには世界チャンピオンも
鈴木忠男氏は1945年2月19日生まれの、2018年現在73歳で、ニックネームは『忠さん(ちゅうさん)』。
現在は株式会社SP忠男の代表取締役として、関東圏に4店舗あるSP忠男オリジナルショップの運営やSP忠男オリジナルマフラーの開発・販売に注力しています。
また、レーシングチーム『SP忠男レーシング』の監督として、チーム運営にも携わっていました。
そんなSP忠男レーシングは、全日本ロードレース選手権、鈴鹿8時間耐久レース/4時間耐久レースといった国内トップカテゴリーのレースで活動し、原田哲也氏や中野真矢氏など世界で活躍する多くのトップライダーを輩出しています。
また、SP忠男レーシングに所属するライダーは目玉マークが描かれたヘルメットを着用することで知られており、所属するライダーがSP忠男レーシングから他のチームに移籍しても、目玉マークのヘルメットを継続して使用していることがほとんどです。
SP忠男レーシング出身の主なライダー
選手 | 主な成績 |
---|---|
原田哲也 | 1992年 全日本ロードレース選手権国際A級 GP250 シリーズチャンピオン 1993年 ロードレース世界選手権GP250シリーズチャンピオン |
松戸直樹 | 1999年 全日本ロードレース選手権GP250シリーズチャンピオン |
中野真矢 | 1998年 全日本ロードレース選手権 GP250シリーズチャンピオン 2000年 ロードレース世界選手権 GP250シリーズ2位 |
中須賀克行 | 2008~2016年 全日本ロードレース選手権 JSB1000 7度シリーズチャンピオン 2015~2017年 鈴鹿8時間耐久ロードレース 3度 優勝 |
小山知良 | 2000年 全日本ロードレース選手権 GP125 シリーズチャンピオン 2007年 ロードレース世界選手権 GP125 シリーズ3位 2015年 アジアロードレース選手権 SS600ccクラス シリーズ2位 |
加藤義昌 | 1993年 全日本ロードレース選手権 GP125 シリーズチャンピオン |
故・永井康友 | 1991年 全日本ロードレース選手権 TT-F1 シリーズ2位 1994年 ボルドール24時間ロードレース選手権 優勝 |
忠さんが持つ数々の伝説をご紹介
忠さんは6人兄弟の末っ子で、実家は旋盤工場を営んでいました。
15歳からレース活動をする一方で実家の稼業は欠かさず手伝い、ヤマハワークスとしてレース出場していたときも、練習が終わった夜の8時から仕事をしていたそうです。
そんな忠さんですが、モトクロスレースを始めると才能が開花し、出場するレースでは連戦連勝。
同時に、驚くようなエピソードを多数持っているので、ご紹介したいと思います。
18歳でトーハツワークス入り
忠さんは8歳の時に初めてバイクに乗り、14歳で原付免許を取得します。
そして15歳の時に購入した山口オートペットで初めてモトクロスレースに参戦するのですが、ほとんどノーマル状態の車体だった事もあり、予選敗退。
その事実がかなり悔しかったようで、16歳の時に5万8千円のトーハツランペットを購入。
当時の忠さんの月給が8千円だったため、姉に借金して購入したそうです。
その後トーハツトラペットで初優勝するも、次男である兄から「レースはお金がかかるからやめろ。」と言われ、レース継続を断念。
その時に兄はモトクロスを辞めさせるかわりに、オンロードスポーツモデルであるヤマハYDS-2を買い与えました。
しかし、忠さんはモトクロスレースへの参戦を諦めることができず、17歳の時に千葉県のスピードスクランブルにヤマハYDS-2で出場。
アップハンドルとアップマフラーを取り付け、タイヤはノーマルのままでしたが、レースでは優勝し、当時の最年少優勝記録を打ち立てたのです。
そして、それを見ていたトーハツ陣営からトーハツワークスマシンTR250に乗らないかと誘われ、若干18歳でトーハツワークスライダーとなり、モトクロスレースに参戦し続けます。
また、同時期にヤマハもモトクロスレースに本格参入し、ヤマハYG-1、YA-6、YDS-2をベースにしたモトクロスバイクを製作していました。
余談ですが、当時ヤマハの初代ワークスライダーだった野口種晴氏が忠さんにYDSベースのヤマハワークスマシンに乗らないかと持ちかけ、実際に乗ってみるとTR250より圧倒的に速いことに驚いたそうです。
それでも忠さんは、ヤマハワークスをおさえてTR250で優勝。
非力なマシンでも自らの技量で勝ててしまうほど、素晴らしいライディングテクニックをもっていました。
ヤマハワークスに入り、1日に4クラスで優勝
1964年に忠さんがワークスライダーを務めていたトーハツが倒産してしまいます。
しかし、野口種晴氏の誘いでこの年にヤマハのセミワークスライダーとなり、ワークスライダーより勝る速さから翌1965年に正式なヤマハのワークスライダーに!!
その年に行われた三浦海岸 長浜のレースで、90cc、125cc、250cc、オープンの4クラスに出場。
1日に4レースをこなし、十分なテストも行わないぶっつけ本番だったにもかかわらず、4クラスすべてで優勝。
この時からヤマハのエースライダーとして頭角を現すようになりました。
マシントラブルで1周遅れになっても優勝
ヤマハワークスに入った後、忠さんは相模湖近くの山岳コースで行われた全日本モトクロスレースに参戦しました。
しかし、決勝レースのスタート時にバイクのエンジンがかからないというトラブルが発生。
全車、既にスタートしていましたが、忠さんはバイクの運搬用に乗っていたダットサントラックに戻ってプラグ交換を行い、ようやくエンジンを始動。
他の選手たちはすでに一周を終えようというところで、一周遅れ状態からのスタートとなりました。
そこから忠さんは猛烈な追い上げを見せて全車を追い抜き、トップでチェッカー!
スタート後にプラグ交換を行って、大きく出遅れたにも関わらず優勝というドラマを演じて見せたのです。
ヤマハ初の単気筒モトクロスバイクでデビューウィン
ヤマハの250ccモトクロスバイクは、2気筒エンジンを搭載したYDS-2ベースのマシンでした。
ライバルであるスズキRH68やカワサキF21Mは単気筒で性能はヤマハのマシンより勝っており、忠さんはライバルよりも重いマシンに四苦八苦します。
しかし、忠さんが22歳となった1967年にヤマハは単気筒エンジンを搭載したYX26を投入。
デビュー戦は、1967年5月14日に福島県郡山にある自衛隊演習場の特設会場で行われた全日本モトクロス大会でした。
ヤマハチームはレース前日からコースインしましたが、その時点で他社のライバルマシンとの性能差は明らか。
チーム全体が諦めムードに包まれていました。
そんな悪いムードの中、ヤマハチームから忠さん、加藤清丸氏、荒井市次氏が250ccクラスに出場しましたが、他メーカーとのアドバンテージがあったにも関わらず、忠さんがぶっちぎりの優勝!
そして2年後の1969年にはヤマハDT-1ベースのマシンを駆り、全日本モトクロス セニア250ccクラスシリーズチャンピオンと125ccクラスシリーズ2位に輝き、MFJ最優秀選手に選出されました。
選手生命が危ぶまれる大怪我にもかかわらず、即復活&優勝
MFJ最優秀選手に選出された忠さんは、1970年にヨーロッパで行われている世界モトクロスに参戦。
オランダナショナルモトクロス戦では日本人初の優勝を手にします。
しかし、ベルギーのテスト走行中に手首を負傷し、イギリス ブリストンでは大転倒したのち、乗っていたバイクが自分に乗りかかる大事故となりました。
そして首の第7番目の骨を圧迫骨折したにも関わらず、帰国後自らクルマを運転して病院へ行き大騒ぎに。
医師から手術が必要と診断されますが、手術を受けずに1ヵ月で退院し、8カ月後にはレースに復帰します。
選手生命も危ぶまれる大怪我にも関わらず、驚異的な回復をみせ、復帰第一戦の全日本モトクロス選手権 第6戦125ccクラスでは優勝を果たすという驚異の記録を残しました。
鈴木忠男氏がモトクロスライダー現役時代の動画
まとめ
忠さんは30歳ぐらいまでヤマハの契約ライダーを務め、レース出場やマシン開発に携わっていましたが、31歳の時にスペシャルパーツ忠男を開店。
SP忠男レーシングのレース活動では裏方に回りますが、有望な選手を多数育て上げ、忠さんが生み出すSP忠男のオリジナルパーツは多くのユーザーから支持されています。
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