4強時代という言葉を知っていますか?1980年代から1990年代のWGP(ロードレース世界選手権)では4人のトップライダーが熾烈な優勝争いを繰り広げていました。現在のモトGPとは異なり当時のバイクは2サイクル500cc、そして電子デバイスの技術も発達していなかった時代にライダーたちは命を賭けてレースを戦っていたのです。今回はそんな「WGP4強」と呼ばれた4人のライダーをご紹介します。
CONTENTS
WGPを変えた2人の男 ニュースタイルのライディング
1980年代に訪れたバイクブーム。それは日本における「生活に車を」のモータリゼーションから「車に楽しさを」へシフトした、ムーブメントのひとつだったのではないでしょうか。
その時代は「暴走族」から「走り屋」への転換期でもあり、それぞれが自慢のマシンを駆って峠などを攻めているという、少しアウトローな人たちが存在しました。
決して肯定できる行為ではありませんが、きっと彼等の瞳には憧れのレーサーの姿が映っていたのでしょう。
1949年の開催以来世界中のファンから愛されたWGPでは、70年近くに及ぶ歴史の中で様々なライダーが各メーカーの威信を背負いサーキットを駆け抜けていったのです。
King Kenny:WGPの王者 ケニー・ロバーツ
1970年代後半に世界を席巻したヤマハのライダー、ケニー・ロバーツ。
彼は「キング・ケニー」と呼ばれ、WGPだけではなくバイクレースを大きく変えたライダーの1人といえます。
現在のバイクレースでは当たり前となっているライディングフォーム「ハングオン」。
「ハングオフ」とも呼ばれるこのスタイルは従来のライディングフォームと異なっており、マシンを深くバンクさせて路面に膝を擦りながらコーナーを駆け抜けていく姿に多くのファンは熱狂しました。
その「ハングオン」スタイルを確立したのが、ケニー・ロバーツなのです。
ケニーは1978年から1980年にかけてWGP3連覇を成し遂げますが、1983年にはWGPを引退することになりました。
しかしその後も鈴鹿8時間耐久レースに参戦するなど、日本でも人気のあるライダーです。
Fast Freddie:速すぎる男 フレディ・スペンサー
1982年、WGPにおいてホンダからとんでもないライダーが現れました。その男の名はフレディ・スペンサー。
長身な身体とダートトラックで培ったテクニックを活かし、タイヤを滑らせて走るスタイルにファンは興奮しました。
1983年にはケニー・ロバーツとデッドヒートを繰り広げ、21歳8ヶ月という若さでシリーズチャンピオンを獲得、同時に最年少優勝記録も樹立。
ちなみに、最年少優勝記録は2013年にmotoGP™でマルク・マルケスが更新するまでの30年間破られることはありませんでした。
また、1985年には250ccと500ccにダブルエントリーしてダブル優勝の偉業を果たすなど「元祖・若き天才」と呼ぶにふさわしい人気のライダーです。
4強時代の到来 そして優勝を賭けたバトル
ハングオンが一般的なスタイルとして定着した1980年代は多くのライダーを輩出した時代でもあり、とくに4強と呼ばれた4人のライダーの存在は現在でも多くのファンに語り継がれています。
中でも、1983年のWGPはケニー・ロバーツとフレディ・スペンサーの一騎打ちで沸きましたが、同時に4強時代到来のプロローグとも言えるシーズンでした。
エディ・ローソン:優勝回数No.1 ミスを犯さない男
1983年、デビューイヤーにして4位にランクインしたヤマハのライダーが後のWGPを荒らすことになります。
そのライダーこそが4強時代の一角、エディ・ローソンです。
彼はヤマハからケニー・ロバーツのチームメイトとしてWGPデビューを果たし、翌年の1984年にはフレディ・スペンサーを抑え、デビュー2年目にして早くもシリーズチャンピオンを獲得します。
その後も1986年、1988年と圧倒的な速さで優勝を重ね、その冷静で安定したレース運びから「ステディ・エディ」と呼ばれました。
しかし所属していたチームマールボロヤマハと契約に関して条件が折り合わず、1989年にはロスマンズホンダに移籍。
そして、移籍1年目にしてシリーズ優勝を果たしました。
その後もヤマハ、カジバ(現在のドゥカティ)と移籍を繰り返しますが優勝には及ばず、1992年のハンガリーGPにおいて最後の優勝を飾り同年、WGPを引退します。
ワイン・ガードナー:オーストラリア人初代チャンプ
ロスマンズカラーの青いマシンを駆り「ブルーサンダー」のニックネームでファンから愛されたワイン・ガードナー。
彼は鈴鹿8時間耐久レースに10回参戦し、4度優勝に輝いた日本でも人気の、そして知名度の高いライダーです。
ガードナーは1983年、第8戦オランダGPでデビューしますが、そのレースでアクシデントに見舞われます。
前方を走るスズキのライダー、フランコ・ウンチ―ニが右コーナーで転倒、そしてコース外へ避難しようとしたウンチーニと後続のガードナーのマシンが接触。
その衝撃でヘルメットが吹き飛ばされ、ウンチーニはその場に倒れ込んでしまったのです。
ウンチーニは緊急搬送されますが幸い一命をとりとめ、その後レースに復帰するまでに回復しました。
アクシデントの直後、ガードナーは「フランコが死んだら私はレースを辞める」と周囲に語り、かなり動揺していたと言われています。
そしてレースの結果は「転倒によるリタイア」と、まさに悲運のデビュー戦でした。
翌年の1984年にはプライベーターとしてホンダRS500でWGPにスポット参戦し、また1985年にはホンダのサテライトチームとして3気筒マシンのNS500で本格参戦、シリーズ4位を獲得します。
また、1986年にはワークスチームであるロスマンズホンダに移籍し、チームメイトであるフレディ・スペンサーとNSR500で参戦、開幕戦のスペインGPでは優勝を獲得しました。
しかしその後スペンサーは怪我により多くのレースを欠場、事実上このシーズンはガードナーが1人で戦う有様でした。
しかも参戦マシンであるNSR500は「フレディ・スペシャル」と呼ばれ、スペンサーに合わせてセットアップされていたためにガードナーにとって決して乗りやすいマシンではありませんでしたが、不慣れなマシンを乗りこなしヤマハのエディ・ローソンと優勝争いを展開してシリーズ2位を獲得。
そして1987年、マシン開発に携わったガードナーは自分用にセットアップされたマシンでヤマハのランディ・マモラとの激しいバトルを制して7勝を挙げ、念願のシリーズチャンピオンに輝きました。
しかしその後は怪我に悩まされて結果に恵まれず、1992年にWGPを引退します。
ウェイン・レイニー:ぶっちぎりのレイニースタイル
1984年WGP250。ケニー・ロバーツのチームから1人のライダーがデビューしました。
残念ながら結果を出すことなくWGPから姿を消しますが、4年後の1988年にそのライダーは再びWGPに参戦することになるのです。
舞台はWGP500。
完璧なレース運びで「Mr・100%」と呼ばれたウェイン・レイニーはスタート直後からトップに立ち、後続のライダーを大きく引き離すレース運びを得意とし、そのレーススタイルは「レイニーパターン」と呼ばれました。
デビューイヤーの1988年にはイギリスGPで初優勝を挙げて、そのシーズンはランキング3位を獲得。
1989年には当時ホンダに所属していたエディ・ローソンとチャンピオン争いを展開しますが、結果は惜しくもランキング2位となりました。
翌1990年はローソンがヤマハに復帰、昨年のライバルであったレイニーとローソンはチームメイトとしてシーズンを迎えることになるのです。
そして迎えた初戦の日本GPをポールトゥウィンで優勝したレイニー。
幸先の良いヤマハ勢でしたが第2戦ではローソンが転倒し踵を骨折してしまい、その後のレースを長期欠場することにります。
レイニーはヤマハのエースとして戦うこととなりますが、15戦7勝、表彰台14回の好成績でシリーズ初優勝を果たし、続く1991年、1992年もレースを制して3年連続でシリーズチャンピオンに輝きました。
そして運命の1993年シーズン、4連覇を狙うレイニーはマシンに悩まされながらも確実にポイントを重ね、第12戦のイタリアGPに臨みます。
現在のイタリア・ミザノサーキットは時計回りの周回ですが、当時は反時計回りでレースが行われていました。
このコースを得意とするレイニーは3周目にトップに躍り出て、得意のレイニ―パターンで優勝を狙います。
しかし11周目に転倒を喫し、リタイヤする結果となりました。
そしてこのレースが、ウェイン・レイニーの最後のレースとなってしまったのです。
第六頚椎損傷による下半身不随。
このアクシデントによりファンやチームメイト、そしてライダー仲間は悲しみに包まれました。
そして翌年の1994年に、レイニーは引退することになるのです。
ケビン・シュワンツ:永久欠番34 ゴールまで安心できない男
スズキのエースライダーとして4強の中でも異彩を放ったライダー、ケビン・シュワンツ。
長い手足で暴れるマシンを抑え込み、「優勝か転倒か」のスリリングなライディングスタイルからフライング・テキサンのニックネームで呼ばれ、特に最大のライバルであるウェイン・レイニーとのバトルは熾烈を極めた歴史に残る名勝負を繰り広げました。
1988年から500ccへのフル参戦を開始し、開幕戦の日本GPでいきなり優勝を飾りシリーズランキング8位を獲得します。
翌年の1989年は4強同士で数多くのバトルが繰り広げられ、シュワンツのライディングスタイルが最も際立ったシーズンでもありました。
開幕戦の日本GPをはじめ計6回の優勝を獲得しますが、リタイアも6回。そのシーズンランキングは4位に留まります。
その後も常に優勝争いに加わるも、リタイヤが多くなかなか勝利を飾ることができません。
シュワンツが唯一優勝したシーズンが、1993年。レイニーにアクシデントがおきたシーズンです。
第9戦まで表彰台に上がるも、第10戦のイギリスGPではアクシデントにより怪我を負ってしまいます。
そして第12戦のイタリアGPで、レイニーの身に起きた大事故。
シュワンツはシーズン初優勝をあげますが、その顔に笑顔はなく「彼(レイニー)の怪我が治るならタイトルはいらない。」と言葉を残し、ライバルを失った喪失感に包まれていました。
翌年1994年は「ゼッケン1」を纏いチャンピオンとして挑みますが、怪我の影響からシリーズ4位という結果に。
そして1995年、日本GPを最後に欠場、そしてイタリアGPにおいてシュワンツは引退を表明するのです。
ちなみに、その決断は日本GPからの帰りの飛行機の中で、かつてのライバルであるウェイン・レイニーと話し合って決めたと言われています。
まとめ
WGPにおいて、ひとつの時代を築いた4人のライダー”4強”と呼ばれた男たちを紹介しました。
プライドを賭けてサーキットで戦い、ファンを惹きつけた4人の男たち。
彼らは今も健在で、スタイルこそ違いますが現在もレースに関わり続けています。
そして近年では鈴鹿8時間耐久レースにケビン・シュワンツが来日、「レジェンドライダー」として大きな話題となり4強人気を証明しました。
鈴鹿、ホッケンハイム、シルバーストーンにラグナセカ、伝説は世界中に残されています。
[amazonjs asin=”B002OQA58U” locale=”JP” title=”1991鈴鹿伝説 DVD”]
Motorzではメールマガジンを配信しています。
編集部の裏話が聞けたり、最新の自動車パーツ情報が入手できるかも!?
配信を希望する方は、Motorz記事「メールマガジン「MotorzNews」はじめました。」をお読みください!