近い将来、新車販売される自動車は全て電気自動車か、何らかの形のハイブリッド車になると見込まれていますが、今から70年以上前の日本でも極度のガソリン不足により、電気自動車へ期待が寄せられた時期がありました。その時代の代表として現在まで伝えられているのが、「たま」シリーズの電気自動車です。

E4S-47 I型 小型たま電気自動車 / Photo by MIKI Yoshihito

戦後復興期の余剰電力を活用した「たま電気自動車」

オオタのトラックへエンジンの代わりにモーターを積む単純な構造 / 出典:https://www.nissan-global.com/EN/ZEROEMISSION/HISTORY/TAMA/

第2次世界大戦末期の日本では、トラックやバスなど自動車の燃料を木炭などの燃焼ガスに切り替えるほどの燃料不足に陥り、1945年8月の終戦後に日本を占領していた連合軍が1947年以降、限定的ながら乗用車生産の再開を許可しても、ガソリン不足は依然解消されないままでした。

一方、戦争末期の都市や工場に対する爆撃、戦後の占領期に兵器の生産に関わる軍需産業の禁止で電力需要は激減したものの、ダムなど水力発電能力は残っていたため、電気が余っている状態で、「ガソリンがないなら電気で走らせればいいじゃない?」とばかりに、電気自動車を開発・生産しようという動きが出てきます。

そのうちのひとつが、戦後の軍需生産禁止で民需、つまり民生用製品メーカーに転換したかつての軍需産業で軍用機も開発していた立川飛行機で、戦前には「オオタ」ブランドで小型乗用車やトラックを生産・販売しており、戦時中には立川飛行機傘下となっていた高速機関工業のトラックをベースに、小型電気自動車「たま」を開発しました。

バッテリーは床下に搭載 / 出典:https://www.nissan-global.com/EN/ZEROEMISSION/HISTORY/TAMA/

その後1947年に立川飛行機自体は占領軍の命令で解体されるも、電気自動車部門は「東京電気自動車」として独立。「たま」の乗用車版E4S-47型および、トラック版EOT-47型を発売します。

「たま」は戦前型のオオタ小型トラックに、エンジンの代わりにモーターを載せ、床下へバッテリーを搭載した程度で、FR(フロントエンジン・後輪駆動)レイアウトや2速ミッションなどはそのまま使うなど、現在から見れば安直な作りでしたが、政府主催の第1回性能試験でE4S-47型は最高速度35km/h、一充電走行距離96km(ただし経済速度28km/h)と、カタログ以上の性能を発揮します。

戦前~戦後すぐのダットサン小型乗用車を思わせる4人乗りボディ / 出典:https://www.nissan-global.com/EN/ZEROEMISSION/HISTORY/TAMA/

それにより当時としては優秀な自動車という評価を受けたとはいえ、乗用車生産の再開許可直後は生産台数に制限があり、販売価格は35万円ほどだった「たま」は、45万円以上のプレミア価格で取引されたと言われており、戦後復興期のタクシーとして使われました。

「たまジュニア」や「たまセニア」への発展と終焉

大型化してバッテリーも増やし、航続距離を90kmに伸ばした たまジュニア(写真は1950年型) / 出典:https://www.allcarindex.com/production/japan/tama/

上々のスタートを切った東京電気自動車は、引き続き1948年に「たま」を大型高性能化。バッテリーを着脱式から固定搭載として、より乗用車らしいデザインにした「たま ジュニア」と「たま セニア」を開発します。

そして1949年11月には社名も「たま電気自動車」へ改め、「たま」ブランドの周知が図られました。

ちなみに「たま ジュニア」はバッテリー容量と走行距離が異なる2つのモデルが存在する、テスラや日産、三菱など現在の電気自動車メーカーもよく使う手法が既に使われており、E4S-47型と同じバッテリーなら走行距離も同じく65km。大容量バッテリー型なら90kmで、当初は戦前型オオタ車以来の木骨鋼板張りボディだったものが、1949年12月には新しい全鋼製ボディへと一新されました。

1949年型たまセニア。この頃はまだ木骨鋼板張りで古い構造の2ドア。 / 出典:https://www.allcarindex.com/production/japan/tama/

「たま セニア」はE4S-47型後継の「ジュニア」より、全長・ホイールベースともに延長。フロントサスペンションに独立懸架を採用するなど、快適性や操縦性が高められた上級モデルで、1948年9月に国が主催した第2回性能試験では平均速度こそ22.8km/hながら、一回の充電での走行距離は実に231.5kmを達成します。

これは、前回E4S-47型が叩き出した記録を大幅に更新する新記録で、期待の新型車となりました。

一方で、最高速度の55km/hで走ると、走行距離は130km程度に落ちたと言われていますが、現在で言えばトヨタの超小型モビリティ「C+pod(シーポッド)に匹敵する性能を70年以上前に達成していたのは見事としか言いようがありません(もっとも、安全基準など要求される性能が全く異なる時代の産物ですから、単純に「だから現代のEVは進歩していない」とは言えません。)。

その後セニアも全鋼製ボディとなり、ジュニアともども1949年型、1950年型と性能を向上させていきますが、1950年6月に北朝鮮が韓国に侵攻して始まった朝鮮戦争で、日本の電気自動車事情は180度変わってしまいます。

国連軍の後方拠点として膨大な軍需の注文を受けた日本では、バッテリーに必要な鉛の価格が急騰し、電気自動車への安価な供給などできなくなる一方で、軍用に持ち込まれたガソリンが民間市場へも放出され、ガソリンエンジン車が息を吹き返したのです。

1950年型たまセニア。ここでようやく全鋼製4ドアボディになるが、朝鮮戦争の影響でたまの電気自動車は1951年6月で生産終了した。/ 出典:https://www.nissan-global.com/EN/ZEROEMISSION/HISTORY/TAMASENIOR/

そうなると現在と事情は全く同様で、「充電に時間がかかり、安ければ一充電走行距離が不足し、十分な走行距離を確保すると高すぎる電気自動車」は、ガソリンエンジン車に全くかなわず、多少売れていたとはいえ採算ベースに乗る前だった「たま電気自動車」も、もはや電気自動車メーカーとして存続できなくなります。

そして1951年11月には普通の自動車メーカーへ転換したのを印象づけるように「たま自動車」へ名称を変更。翌1952年にはAISH型乗用車「プリンスセダン」を発売し、後にスカイラインやグロリアを生むプリンス自動車工業へ発展していきました。

たま トラック(ガソリンエンジン改造) 出典:http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/motorz.production.assets/wp-content/uploads/2016/09/http-www.tomeipowered.comBTEindex.phptomei-history2735.jpg?id=10

なお、車体生産を請け負っていたオオタこと高速機関工業も、「たま」電気自動車シリーズの終焉で窮地に陥り、しばらくは「たま」のトラックを自社製ガソリンエンジンへ改造販売するなどして凌いだ後、プリンスと同時期の1952年にオオタ自動車として再起を図ります。

しかし、戦時中にも軍需メインながら自動車メーカーとして存続し、戦後復興期にも再起を図って研究開発や海外からの技術導入にも熱心だったライバル他社とは異なり、戦前から大きな進歩がなかったオオタは結局再起に失敗。1955年に経営破綻へ追い込まれました。

「たま」E4S-47型 主要スペックと中古車価格

たま電気自動車/出典:https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/motorz.production.assets/wp-content/uploads/2016/09/http-www.tomeipowered.comBTEindex.phptomei-history2735.jpg?id=9

東京電気自動車 E4S-47 I 小型たま電気自動車 1947年式
全長×全幅×全高(mm):3,035×1,230×1,618
ホイールベース(mm):2,000
車重(kg):1,100
モーター:直流直巻電動機
駆動バッテリー:鉛蓄電池 40V 162Ah
定格出力:3.3kw(4.5ps)
最高出力:-kw(-ps)
最大トルク:-N・m(-kgm)
1充電走行距離:65km(計測方法不明)
最高速度:35km/h(経済速度28km/h)
乗車定員:4名

駆動方式:FR
ミッション:2MT
サスペンション形式:(F・R)リーフリジッド

(中古車相場とタマ数)
※2021年5月現在
皆無

「たま」と「オオタ」、そして「日産」

E4S-47 I型 小型たま電気自動車 /出典:https://www.nissan-global.com/EN/ZEROEMISSION/HISTORY/TAMA/

「たま」電気自動車シリーズを支えた2社である、たま自動車から改称した「プリンス自動車工業」と、高速機関工業から改称した「オオタ自動車」のその後について。

プリンスはその後も社名変更や新型車の開発をおこない、ことに国産初のスポーツセダン「スカイラインGT」や、同じく国産初のプロトタイプレーシングカー「R380」を生み出す伝説的メーカーとなるも、1960年代に日産へ合併し、今に至っています。

オオタも破綻後、出資者や社名を変えるなど紆余屈折を経つつかろうじて存続するも、1960年に発売した起死回生の軽4輪商用車「くろがね ベビー」が初代スバル サンバーとの販売競争に破れ、ついに自動車メーカーとしての存続を断念。現在は日産子会社の「日産工機」として細々と存続するのみです。

「たま」の歴史を引き継いだ日産が、近代的なEV(電気自動車)「リーフ」や、モーター走行型のシリーズ式ハイブリッドシステム「e-POWER」により、電動化で豊富な実績を誇る自動車メーカーとなっているあたりを見ると、電気自動車とは切っても切れない運命の糸に繋がれているのかもしれません。