開場50年を迎えた富士スピードウェイ。その歴史を語る上で欠かせないのが「富士グランチャンピオンレース」です。プライベーターが独自にカスタムしたマシン、様々なキャラクターのレーサーたちが火花を散らす国内最高峰のイベントとして、かつて行われていたイベントです。「富士GC」「グラチャン」「グランチャン」と呼び方も様々ですが、一流のレーサー、多彩なマシン、そして豪快な富士スピードウェイという舞台は、唯一無二の魅力を持っていました。今回はそんなGCについて、振り返っていきたいと思います。

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ワークス戦争の終焉と新時代の幕開け

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69年日本グランプリを制したR382。ワークス撤退は富士スピードウェイの経営面で死活問題でもあった 出典:https://www.carthrottle.com/

日産やトヨタがしのぎを削り合い、大盛り上がりとなっていた1960年代の国内モータースポーツ。しかし70年代に入ると、米国発の排ガス規制対策の対応に追われた自動車メーカーは続々とレースにおけるワークス活動を中止。これにより1970年の日本グランプリが急きょ中止となります。

そんな最中、新たに企画されたのが「富士グランチャンピオンレース」、今までのように「メーカー」ではなく「ドライバー」が主役となる新しいレースとしてスタートを切ったのです。

メーカーの出資に頼らずスポンサーから出資を募る「欧米型」のレース興業が初めて本格的に行われたイベントでもあり、同時に企業スポンサードを受けた多くの国内レーシングチームが生まれました。

その意味でまさに“国内シリーズレースの元祖”とも言えるのです。

 

資本と“センス”を持ったプライベーター達

プライベーターとしてレーシングチームを持ち、メカニックを雇い、そしてレーシングカーを買える…となると、それなりの資本がバックにある人々だったことは間違いありません。

経営者を父に持つような20代そこそこの才能ある若者たちが、こぞってモーターレーシングの世界に足を踏み入れていきました。

彼らには、育ちが良いからこそ持ち得たセンスと、そして先見の明がありました。

しかしバックボーンがあるとはいえ資金的には限界があった彼らは、少ない情報をかき集め、ヨーロッパで主流になりつつあった「2リッター・プロトタイプ」というひとつの可能性にたどり着くのです。

 

いよいよ登場するグラチャンマシンの始祖たち。
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