いすゞ の初代ピアッツァは、事あるたびに名車のように話題になりつつ、中古車の流通台数はベレット以下、フローリアンと同等というところまで落ち込みました。そんな初代ピアッツァをご紹介します。

初代いすゞ ピアッツァ / 出典:https://gazoo.com/catalog/maker/ISUZU/PIAZZA/198101

「アッソ・デ・フィオーリ」改め「いすゞX(エックス)」改め「いすゞピアッツァ」

「アッソ・デ・フィオーリ」のラフ画 / 出典:https://www.italdesign.it/project/asso-di-fiori/

現在は、日産からOEM供給を受ける1BOX商用車「コモ」を除けば、日本国内ではバス/トラック専業メーカーとなっているものの、かつては小型乗用車メーカーでもあった、いすゞ自動車。

そのいすゞ自動車で、新しいスポーティクーペの開発計画が持ち上がったのは1977年頃で、社内で117クーペ後継となるイメージリーダーとして検討されてきた「スーパー・ジェミニ」計画に、スーパーカーブームの影響で外部から提案されたSSC(Small Super Car)計画を加え、検討を重ねます。

そして1978年、既存車の部品を使ってコストを抑え、量産に適した快適性と実用性を兼ね備えつつ、斬新なデザインのスポーツワゴン「SSW(Super Sports Wagon)」として、プロジェクトにGOサインが出されるとともに、117クーペ以来からの付き合いであるイタリアのカロッツェリア、イタルデザインのジウジアーロ御大へデザインが発注されました。

東京モーターショー1972での「いすゞ117クルーザー」 / 出典:https://www.allcarindex.com/concept/japan/isuzu/117-cruiser/

いすゞではかつて、「いすゞスポーツワゴン」を1971年に、117クーペで同様の意図を持つ「117クルーザー」という派生車を、1972年の東京モーターショーへ出展した事があり、新型車でそのコンセプトを実現しようとしたのかもしれません。

これを受けたジウジアーロからデザインスケッチが送られてくると、いすゞは早速ジェミニ(初代PFジェミニのZZ、またはチューニング版)のシャシーをイタルデザインへ送り、突貫作業でコンセプトカーの開発を始めます。

そして1979年3月に開催されたジュネーブショーの開幕直前に完成したコンセプトカーは、「アッソ・デ・フィオーリ」と名付けられてプレスデーに公開されましたが、メディアや他メーカー関係者が驚き、賞賛する以上に驚いたのはいすゞの関係者でした。

GOサインを出したと言っても、いすゞがSSWへ求めていたのはあくまでかつてのベレットMX1600のように量産まで考慮しないイメージリーダー的なコンセプトカーで、作ってもせいぜい十数台をスーパーカーショウ的に大都市のショールームへ置いておければ、くらいに考えていたようです。

アッソ・デ・フィオーリ/ 出典:https://www.italdesign.it/project/asso-di-fiori/

ところが「アッソ・デ。フィオーリ」は急増ゆえに内装こそ実用的ではないショーカーそのものだったとはいえ、日本人の体格に合わせた広くて使いやすいキャビンに、使い勝手の良さそうなラゲッジルームを持つ3ドアハッチバッククーペで、空力的にも優れた流線型のフォルムは、スポーツカーとしても人気が出そうでした。

ジウジアーロとしてはいすゞの要求に最大限応えただけの事でしたが、完成度の高いデザインに、ジュネーブへ集まったメディアはいすゞ関係者へ、「いつ発売するのか」と質問攻めにするも、答えられるわけもありません。

同年11月の東京モーターショーへ「いすゞX」として出展した時も同様で、タイヤなど細部を変えた以外は「アッソ・デ・フィオーリ」そのものでしたが、その間にイタルデザインやGMとも話し合い、生産・販売計画を本格始動。北米市場に合わせた車体のサイズアップと本格的な内装など、現実的なデザインと試作、走行試験の計画が始まっていました。

近代版117クーペでもジェミニスペシャルでもない、新型クーペ「ピアッツァ」誕生!

初代いすゞ ピアッツァ / Photo by Rutger van der Maar

1981年1月のジュネーブショーでも「いすゞX」として出展されましたが、この時は既に生産直前のプロトタイプであり、いわば販売予定車としての初公開でした。

しかし、「アッソ」や「フィオーリ」は既に他社が商標登録していたようで、車名は新たに「ピアッツァ」と名付けられ、1981年5月に発表。翌6月に発売されます。

なお、当時のいすゞは拡販のために販売チャネルを増やしたい意向はあったものの実現に至っておらず、同時期に輸入大型車の販売不振に悩んでいてラインナップを増やしたかったヤナセと利害が一致した結果、内外装色が若干異なるヤナセ版「ピアッツァ・ネロ」もやや遅れて発表・発売されました。

発売当初のラインナップは117クーペ譲りの1.9リッター(1,949cc)「G200」エンジンのDOHC版へ、マイコン制御の燃料噴射装置「I-TEC」を装備した「XE」などの上級グレードと、従来型電子制御電菱噴射装置「ECGI」が採用されたSOHC版を搭載した「XJ」などの、2系統4グレード。

アッソ・デ・フィオーリがドアミラーなのに対して、運輸省(現・国土交通省)が認可しなかったため、国内仕様「ピアッツァ/ピアッツァ・ネロ」はフェンダーミラーとなりましたが、それでジウジアーロ御大が激怒したというのはどうやら都市伝説で、当の本人は喜々としてフェンダーミラー仕様のデザインを見ていたという話も伝わっています。

初代ピアッツァの内装で最大の特徴と言える「サテライトスイッチ」 / 出典:https://www.en.japanclassic.ru/booklets/28-isuzu-piazza-1981-jr120.html

外装では点灯時に昇降するセミリトラクタブルライト的なライトカバーが特徴で、内装ではウインカーレバーやワイパーレバーではなく、ステアリング左右のボックスへあらゆるスイッチを集約した「サテライトスイッチ」のインパクトもなかなかです。

ステアリングからあまり手を動かさずにあらゆる操作が可能というコンセプトは、近年の車に装備されるステアリングスイッチに通じるものではありますが、当時としてはよく言えばかなり未来的、普通に言えば奇妙なメカで、操作には事前のレクチャーかマニュアルの熟読、そして若干の慣れが必要でした。

1984年6月にはアスカで先行搭載された、グロス180馬力・ネット150馬力と当時の2リッター級では最強の、2リッターSOHCターボエンジン「4ZCI-ST」搭載車を追加。3段階の切り替えスイッチを持つ、操舵力可変スイッチも採用されました。

そして1985年10月にはサスペンションチューンを受けた「イルムシャー」、1988年5月には北米向け(インパルス)およびヨーロッパ向けの5リンク式リアサスに換装、ロータスチューンを施した「ハンドリング・バイ・ロータス」を発売しています。

日本ではヤナセからも初代「ピアッツァ・ネロ」として販売され、1988年にはボンネットやヘッドライトが北米向け「インパルス」と同様になった/ Photo by Moto “Club4AG” Miwa

なお、ヤナセ版のピアッツァ・ネロはグレード構成や特別仕様車の設定、装備面の変更や改良が独自に行われ、1984年6月のターボ車設定時にはネロ ターボ車のヘッドライトが角目4灯化され、他グレードも同年9月に追随し、大型ウレタンバンパーとされ、北米版インパルスに準じた姿となります。

さらに1988年2月にもインパルス同様の変更が行われ、ヘッドライトが角目4灯のまま小型化されて、昇降式ライトカバーを廃止。ボンネットフードもライトカバー分割線のないインパルス用となるなど、いすゞ版ピアッツァとはだいぶ異なる外観となりました。

他にも初代ピアッツァ派生車には、いすゞ中古自動車販売の企画で、低年式中古車のレストア&独自カスタムを施した「Mscher(武者)」シリーズに、ピアッツァ中古車ベースの「Mscher Blue(ムシャブルイ)」、「New Mscher Blue(ニュームシャブルイ)」、「Katidoki(カチドキ)」が追加され、合計140台ほど販売されたようです。

主要スペックと中古車価格

初代いすゞ ピアッツァ / Photo by Riley

いすゞ JR130 ピアッツァ XE 1981年式
全長×全幅×全高(mm):4,310×1,655×1,300
ホイールベース(mm):2,440
車重(kg):1,190
エンジン:GR200WN 水冷直列4気筒DOHC8バルブ
排気量:1,949cc
最高出力:99kw(135ps)/6,200rpm(※グロス値)
最大トルク:167N・m(17.0kgm)/5,000rpm(※同上)
10モード燃費:10.5km/L
乗車定員:5人
駆動方式:FR
ミッション:5MT
サスペンション形式:(F)ダブルウィッシュボーン・(R)3リンク

 

(中古車相場とタマ数)
※2021年2月現在
ピアッツァ:ASK・1台
ピアッツァ・ネロ:60.0万円~78.0万円・2台

大絶賛もデビュー後は振るわず、絶版後に名車として惜しまれる典型例

初代いすゞ ピアッツァ(画像は北米版「インパルス」)/ Photo by Jacob Frey 4A

「アッソ・デ・フィオーリ」の興奮をそのまま市販車に持ち込み、メディアからはスポーツカーの勢力図を塗り替えるのではと大絶賛。

いすゞもこの手の車種としては強気の月販目標3,000台と掲げたピアッツァでしたが、フタを開けると全く売れませんでした。

何とか平均月販1,000台を超えたのはデビューした1981年のみで、翌1982年には1,000台を、1983年には500台を割り込み、ハンドリング・バイ・ロータスが発売された1988年には平均月販200台すら割り込んで、細々と販売。約10年間での国内総登録台数は、わずか39,448台です。

同時期に登場したトヨタのハイソカー、初代「ソアラ」の2リッター車が166.2万~236万円で購入できたのに対し、初代「ピアッツァ」は166万(エアコン付きなら183万~255.5万円)だったため、「クラウンより高い」と言われた117クーペほどでなかったにせよ、いすゞはまたしてもデザインにこだわった高価な車を作ってしまった事になります。

こうした車は後になってから、「あの時、買っておけば良かった名車」にランクインするものの、その時になって「新車で売れてなかったから中古でもあまり売ってないし、売っていても程度のよいものは高い」と言っても後の祭りです。

折しも円高ドル安が進んだ時代、日本からの輸出車は高価でも高付加価値な車が喜ばれたので、ヨーロッパ版(ピアッツァ)や北米版(インパルス)、オーストラリア版(ホールデン ピアッツァ)はソコソコ売れましたが、日本では残念ながらレア車や珍車となってしまい、今でも熱いファンに支持され続けているものの、部品不足との戦いが続いています。

Motorzではメールマガジンを配信しています。

編集部の裏話が聞けたり、最新の自動車パーツ情報が入手できるかも!?

配信を希望する方は、Motorz記事「メールマガジン「MotorzNews」はじめました。」をお読みください!