ベルトーネ、カロッツェリア・ギア、そして自ら立ち上げた“イタル・デザイン”で、数多くの名車を手がけてきたジョルジェット・ジウジアーロ。おそらくですが、彼の「作品」を一度もみたことが無い…という人は、まずいないでしょう。あの有名なデロリアンや、日産・マーチ、トヨタ・カローラ、2代目ダイハツ・ムーヴなど、実は日本の大衆車でさえ彼の作品は数多いのです。さて今日ご紹介するのは、そんなジウジアーロの年代ごとの代表作たち。せっかくなので、一部マニアックなものもお見せしてまいります。
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ジョルジェット・ジウジアーロの生い立ち
1938年、イタリア・ピエモンテ州の画家の家庭に生まれたジウジアーロは、父と同じように絵画を愛し、画家を目指して美術学校に入学。
その頃たまたま描いたFIAT500のイラストを見たダンテ・ジアコーサはその才能を一目で見抜き、彼を自身が率いるチェントロ・スティーレへと招き入れます。
そこはフィアットの運営するデザインセンターであり、ジアコーサはFIAT500をデザインした本人でもありました。
その後、1959年にフランコ・スカリオーネの後任としてヌッチオ・ベルトーネ直々にスカウトされ、21歳という若さで「カロッツェリア・ベルトーネ」のチーフデザイナーに就任するのです。
当時ほとんど実績がなかったことを考えれば、異例の大抜擢とも言えるでしょう。
この後、巨匠たちを唸らせる…もとい驚愕させる程の才能は、その後の10年だけでいくつもの伝説の名車を生み出してことになるのです。
ベルトーネ時代の作品
”孤高のフェラリーナ” ASA1000GT
1961年のジュネーブ・モーターショーでベルトーネにより発表されたASA1000GT。
そのスタイリングを手がけていたのがベルトーネのチーフに就任して間も無いジョルジェット・ジウジアーロでした。
実はこのクルマ、エンツォ・フェラーリが小型スポーツカーに興味を持ったことにより発案され、故に車体設計を手掛けたのはフェラーリ250GTOのエンジニアで知られるジョット・ビッザリーニであり、開発ドライバーもロレンツォ・バンディーニら当時のフェラーリワークス陣が担当したといわれています。
最終的には「速いフェラーリ」のイメージを守る為、エンツォの意向によりASAに販売の権利を譲渡し、フェラーリとしては世に出なかったとものの、小ぶりな1.0L 直列4気筒SOHCを搭載していながらドライブフィールは正にフェラーリのクオリティと言われています。
同クラスの他車に比べると価格が高めで販売台数も少なかった為、今となってはたいへん希少なクルマになってしまいました。
250GTO譲りのスペースフレーム構造などフェラーリの妥協ない技術が凝縮している上、初期のジウジアーロ作品とあれば、やはりその価値が計り知れないクルマです。
Alfa Romeo Julia Sprint GT/GTA
1950年代にベルトーネのフランコ・スカリオーネの手による「ジュリエッタ」で一世を風靡したアルファロメオ。
1962年に高性能セダン「ジュリア」をデビューさせた1年後、後任であったジウジアーロの手によりスタイリングされた2ドアクーペがこのジュリア・スプリントGTです。
このクルマはモータースポーツでの活躍が鮮烈だったことで名を挙げた車とも言えるのですが、それがアルファのファクトリーチーム「アウト・デルタ」のチューニングが加わった「ジュリア・スプリントGTA」でした。
そもそもがグループ2ツーリングカーレース向けのコンペティションモデルとして製造された為、徹底的なチューニングと軽量化が施されています。
1.6L直4DOHCエンジンには45mm径のサイドドラフト型ウェーバーキャブが装着され、圧縮比も9.7までチューン。
出力は120馬力弱ほどを発揮する上、ボディ外板がすべてアルミニウムに置き換えられており、サスペンションアームやホイールもマグネシウムなどの軽量素材に変更、何とノーマルに比べて200kgもの軽量化に成功しているのです。
このマシンはヨーロッパにおけるグループ2ツーリングカー選手権で1966年から3年連続チャンピオンに輝き、世にアルファロメオの強さを見せつけました。
Fiat Dino Coupe
フェラーリがF2用エンジンのホモロゲーション取得の為、2リッターV6の 通称”ディーノ・ユニット”を500機製造する必要に迫られ、フィアットにエンジン製造を委託したことで生まれた”フィアットとフェラーリのハーフ”のようなクルマです。
当初はスパイダーが市販化されましたが、こちらはライバルのピニンファリーナによるデザイン。
後から追加されたクーペをベルトーネ在籍時のジウジアーロが手がけており、同じシャシーでふたつのカロッツェリアのデザインを楽しめる珍しいクルマともいえます。
このクルマの存在がフェラーリに刺激を与え、名車Dino 246 GTへと繋がっていくのですが、ジウジアーロの作品として見ると後のいすゞ117クーペとよく似ており、当時の彼の美的感覚が色濃く滲んだクルマと言えます。
BMW 3200CS
今では考えられないことですが、第2次大戦後のBMWは深刻な経営危機にありました。その状況を救い、BMWを世界的乗用車メーカーに押し上げたのは、ジョバンニ・ミケロッティがスタイリングを手がけた現代の3シリーズ直系の祖先「BMW・1500」に始まる「ノイエ・クラッセ(New Class)」でした。
一方、戦後から続くV8搭載の「BMW・501/502」シリーズもその系譜は続いており、このクラシカルなシリーズに新世代のBMWのエッセンスを取り入れたのがこの「BMW 3200CS」です。
古めかしいルックスを一掃し、ジウジアーロによりスタイリングされた流麗なクーペとして見事に生まれ変わっています。
フロントマスクは「ノイエ・クラッセ」の新しいBMWの顔を持ちつつ、V8ハイクラスカーの特徴であった縦長のセンターグリルにその意匠を残しています。
一方で、ピラーレス・丸目2灯のシャープなリアビューなどを与えたスパルタンなフォルムは、ミケロッティのそれより更に近未来的なアプローチが見えます。
マツダ・ルーチェ/マツダ・S8P
ジウジアーロデザインの日本車として比較的よく知られるルーチェですが、実は「幻のプロトタイプ」が存在していました。
当時市販車用のロータリーエンジンを開発中だったマツダは、1963年頃初のロータリーエンジン搭載車としてコスモ・スポーツの発売と、そのデザインを決定。
さらに半年ほど後、ロータリーエンジン搭載のFFセダンのデザインをベルトーネに依頼したのです。
それがこのマツダ・S8Pと呼ばれるクルマであり、ジウジアーロがそのデザインを手がけています。
しかし、ロータリー・エンジン自体の開発が遅延したことにより、このクルマは実現しませんでした。
その後、マツダ社内でこのS8PをベースにFR化し、レシプロエンジン搭載車として再設計。
1966年から市販が開始されたのがマツダ・ルーチェという訳です。
いわば、「せっかくのジウジアーロの美しいクルマを水に流すまい」と企画されたクルマとも言えそうです。
純ジウジアーロデザインの初のロータリーセダンが誕生しなかったのは少し残念ですが、ルーチェのほうは今もなお美しき日本車として愛され続けています。
まだまだ続くジウジアーロの作品集。
次のページでは、ついにデロリアンも登場!