日本人2人目のフルタイムF1ドライバーとして活躍した鈴木亜久里。現役時代は日本人初の3位表彰台を獲得、引退後は自らチームを率いて、究極の夢であったF1チームを発足させました。レースを知らない人も彼のことは知っているはずですが、今回は常にエネルギーにあふれ、多くの人を巻き込む彼の足跡に迫っていきます。

©鈴鹿サーキット

石の上にも8年!全日本F3時代の苦労

©鈴鹿サーキット

どことなく”レース界のサラブレット”というイメージのある鈴木亜久里氏(以下敬称略)ですが、F1までの道のりは決して平坦ではありませんでした。

国内カート波及の立役者だった父・正士氏は、故本田宗一郎氏とも親交があった人物です。

その恵まれた環境で、10歳の頃からカートの英才教育を受け、レースの世界へ。

1978年、1981年にはカート全日本王者に登り詰め、国際試合では当時18歳のアイルトン・セナとも対決。

その後は満を持して全日本F3にステップアップしますが、ここから長く苦しい時代が始まるのです。

父親の人脈的な手助けはあったとはいえ、活動資金は自前。資金を稼ぐ為にオイル販売の会社まで設立し、スポンサーも自分の足で募る日々が続きます。

当時から亜久里は「熱っぽく夢を語ること」を恐れず、レースへの投資も惜しみませんでした。

持ち前のエネルギーで周囲を巻き込む力は、この時代に養われたといえるかもしれません。

その苦労が実って、参戦4年目の1983年にはシリーズ2位のリザルトを残します。

1985年にもシリーズ2位の座に就くもチャンピオンには手が届かず、さすがに資金も限界が迫っていました。

 

日産ワークスで才能開花

出典:http://fast-mag.com/

そんな折、父の友人でTOM’S代表の館信秀氏に相談したことがきっかけで、日産から開発ドライバーとしてのオファーを受けます。

そこで年間200日”仕事として”ステアリングを握り、亜久里のドライビングスキルは一気に開花。

走行料もタイヤ代も「すべて自腹」だったF3時代では考えられない環境でした。

また日産ワークスとしてハコのレースにも参戦し、1986年には全日本ツーリングカー選手権(グループA)でチャンピオンを獲得しています。

レースを始めた当初からF1という目標を抱きながら、亜久里の初タイトル獲得はツーリングカーレースだったのです。

 

F1という舞台を目指し、着実にステップアップしていく鈴木亜久里。

次のページではついに自身の夢、F1の世界へと一気に駆け上がっていきます。