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波乱万丈!F1に出るために会社を起こしたレーサー、鈴木亜久里の人生とは

全日本F3000チャンピオンを獲得し、いよいよF1へ

フットワーク/ムーンクラフトMC030 出典:https://www.mooncraft.jp/

同じ頃、資金に余裕が出来たことで富士グランチャンピオンレースにも参戦を開始。

その走りがムーンクラフトを率いる由良拓也氏の目に止まり、国内トップカテゴリーである全日本F3000選手権のシート獲得へとつながります。

ヤマハ製エンジンを積む「フットワーク」のマシンは、亜久里のドライビングで他の追随を許さない速さを披露。

日本一速い男・星野一義選手との死闘を制し、1988年には遂にシリーズチャンピオンに輝きました。

勢いに乗るヤマハは、翌年から「ザクスピード」とのジョイントでF1参戦への準備を進めており、亜久里はそのドライバーを務めることになります。

F3昇格から10年という長い下積みを経て、ついにF1参戦への道が開かれたのです。

同じ頃、ホンダからもF1へ続くであろうオファーがあり、しかし亜久里は「ヤマハへ義理立て」して、これを断ったとのこと。

最強のホンダ・エンジンに彼が乗っていたら…という、なんとも惜しいエピソードですが、

こういった「タラレバ」がいくつかあるのも、彼のキャリアにおける特徴かもしれません。

なお、亜久里は1988年の日本GPにレギュラードライバーの欠場により、ラルースチームから代役参戦という形で一足先にF1デビュー。16位完走を果たしました。

 

全戦予備予選敗退!午前中にはサーキットから帰る日々

©鈴鹿サーキット

1989年シーズン、亜久里はザクスピード・ヤマハから史上2人目のフルタイム・F1ドライバーとして参戦を開始。

ところがこのマシン、パフォーマンスが決定的に欠けていたのです。

当時のF1は世界的な好景気もあり、各国のコンストラクターがこぞってF1に参加していました。

グリッドに並ぶことができる22台に対し、最大40台にも上るエントラントが殺到。

そこで、金曜日の早朝にシード権を持たない下位チームが集まり、行われていたのがいわゆる「予備予選」でした。

そこではなんと、16戦全戦で予選敗退…つまり本戦には1戦も出場できなかったのです。

「午前中に仕事が終わってラッキーと思うようにしていた」とは亜久里氏の談ですが、どれほど悔しい日々だったかは想像に難くありません。

こうして1989年シーズンは空前のF1ブームをよそに、亜久里が”TV中継にすら映らない日々”が続きました。

 

ラルース加入、マシンは日本企業のロゴだらけ

出典:https://www.youtube.com/

出典:https://www.youtube.com/

散々な結果に終わった1989年を以ってヤマハとは別れ、翌シーズンにはよりパワフルなランボルギーニ・エンジンとローラ製シャシーを持つ「ラルース」から参戦が実現。

ここには日本の不動産会社「エスポ」社長の後ろ盾があり、亜久里の情熱に惚れ込むと”戦えるチーム”にする為、ラルースをまるごと買収してしまったのです。

またチームにとって、バブル景気で勢いに乗る潤沢な「ジャパン・マネー」は余りに魅力的でした。

亜久里自身も自らスポンサー集めに奔走し、ラルースのマシンには「東芝」や「ゲオ」など見覚えのあるスポンサーがギッシリ。

当時の好景気が追い風だったとはいえ、彼が下積み時代に培った「周囲を巻き込む力」がここでパワーを発揮したのです。

 

アジア人初!F1で3位表彰台獲得

©︎鈴鹿サーキット

シーズン開幕から、亜久里は前年が嘘のような大躍進を果たします。

ラルースのマシン「LC90」の仕上がりは良く、開幕戦アメリカGPではチームメイトのエリック・ベルナールが6位入賞するなどチームは波に乗っていました。

亜久里は序盤こそ苦戦したものの、初の6位入賞を果たすなどシーズン後半に向けて調子を上げていきます。

そして迎えた日本GP、鈴鹿サーキットでフェラーリ&マクラーレン全滅という”ビッグチャンス”が到来。

当時のF1はいわゆる「4強時代」で、上記の最強2チームに加えウィリアムズとベネトンが常にポイント圏内を独占…という展開が常でした。

©鈴鹿サーキット

亜久里はこのレースで抜群の走りを見せ、9番手グリッドから着実にポジションアップ。

誰もが想定外の猛プッシュによりウィリアムズ勢を逆転し、3位表彰台を獲得するのです。

鈴鹿は大歓声に包まれ、そのニュースはF1ブーム真っ只中の日本列島を駆け巡りました。

最も注目を浴びるステージで最高のパフォーマンスを叩き出すこの”勝負強さ”も、彼の真骨頂。

このレースで一気に国民的アスリートへと上り詰めたのです。

 

幻に終わった強豪「ベネトン」加入

©︎鈴鹿サーキット

91年シーズンもラルースとの契約は残っていましたが、エスポのバックアップが90年限りとなりチームの経営状態は悪化。

その時、亜久里はフラビオ・ブリアトーレ率いる強豪「ベネトン」からオファーを受けて契約にサインしますが、これは「2重契約」となり結局実現しませんでした。

「日本オートポリス」の社長がベネトンをスポンサードしていて、その猛プッシュを受けての縁談だった様です。

これが2つ目の「タラレバ」で、その後ワールドチャンピオンを獲得する強豪チームに、亜久里が参加していたら・・・表彰台への登壇は少なくとも「1回だけ」ではなかったかもしれません。

1991シーズンはラルースの低迷もあり目立った成績は残せず、完走もままならない苦しいシーズンとなります。

翌シーズンからはまたしても日本企業によるチーム「フットワーク」のシートを得ますが、ここでも結果を残せず、1993年いっぱいでシートを失います。チームメイトがポイントを獲得する中、ノーポイントという苦渋を舐めたシーズンでした。

亜久里が独自に培った「人を動かす力」は経営者たちのバックアップを引き出した反面、後ろ盾のない故の「速さと強さ」を持ったライバル達に敵わなかった…という見方も出来るかもしれません。

 

チームオーナーとしての再出発

出典:http://www.honda.co.jp

95年シーズンのF1にスポット参戦後、国内でのレース活動に復帰。

この頃から既に「F1チームを作る」という夢を、様々な人に対して語っていました。

1996年にチームオーナーとなるべく「スーパーアグリカンパニー」を立ち上げると、1998年にはオートバックスのサポートのもと「ARTA F1 Project」を設立。チーム名が示す通り、その先には既に”F1”があったのです。

国内のフォーミュラニッポン、全日本GT選手権(JGTC)を皮切りに、2000年代に入るとドイツF3、DTM、さらにはアメリカのIRLなど海外レースにも参戦を開始していきます。

JGTCから2005年に名称変更したスーパーGTでは、ホンダとのジョイントで2007年にGT500クラスチャンピオンを獲得。オレンジが鮮やかなマシンは、現在も日本のレースシンボルといって過言ではありません。

ARTAは、国内にとどまらず世界的にも稀な一大プロジェクトとして成長し、多くの若者が巣立っていきました。

 

F1プライベートチーム発足へ

©︎Tomohiro Yoshita

2005年11月1日、亜久里はホンダ本社でF1チーム設立を発表します。

チーム名は「SUPER AGURI F1 TEAM」。ホンダのエンジン供給と技術支援が約束されていました。

しかし、発表時点ではメインスポンサーすら決まっていない”真っ白”な状態だったというのです。それでも諦めなかったのは、それが彼の”夢”だったからでしょう。

結果的に博打ともいえるこの発表が多くの企業の目に止まり、支援者が続々と現れたのです。

開幕に向けて急ピッチで準備は進み、当初ホンダの2005年型マシン供給が提案されるもレギュレーションの問題で頓挫。

結局、2002年型のアロウズ製シャシーをモディファイするという苦肉の策が取られました。

©︎鈴鹿サーキット

ドライバーは佐藤琢磨らが加入、ナショナルカラーのマシンとともに「日本のチーム」であることを強く印象付けたのです。

迎えた2006年はシーズン終盤まで苦しい戦いが続きますが、翌2007年にはカナダGPで6位入賞を果たすなど大躍進、ホンダ・ワークスすら脅かすパフォーマンスをも発揮します。

しかし財政面の苦しさは深刻で、せっかく獲得したメインスポンサーが架空企業だったりとトラブルに次々と直面。

最終的には2008年のシーズン序盤に、夢半ばでチームは解散に追い込まれます。

現代のF1に参戦することがいかに難しいかを知らしめる結果に終わってしまったのです。

 

まとめ

出典:http://derapate.allaguida.it/

出典:http://derapate.allaguida.it/

結果的に、彼はF1チーム設立で財政的には痛手を負ってしまいました。

F1引退時、普通の人が一生遊んで暮らしてもお釣りが出るほどの資産が残っていたでしょう。

「若手が育つチームを作り、いつか日本人のF1チャンピオンを生む」という目標の為、それを惜しげもなくつぎ込んだのです。

しかし、スーパーアグリ設立時の「F3の時代から何もない状態で始まっているんだから、別に破産したって構わないんだよ」という言葉が、その人生観を物語っています。

つい最近までフォーミュラEへチームを参戦させるなど、活躍を続ける鈴木亜久里氏。今も尚、その目は未来に向けられていることでしょう。

 

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Writer Introduction
Shinnosuke-Miyano

20代の頃はメカニックをしたり、お洋服の仕事をしたり、とりとめのない日々を送ってきました。 古き良きモノへの敬意が、新しさを生むんじゃないかな。なんて思いながら、ヴィンテージなネタをメインに記事を書かせていただいています。 https://www.facebook.com/shinnosuke.miyano

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