求められる制約の多さという意味で、クルマのデザインは偉大な仕事です。だからこそ優れたデザイナーたちは、後世までその名を残していくのです。今回紹介するのはあのランチア・ストラトスやランボルギーニ・カウンタックを生み出した人物。マルチェロ・ガンディーニです。なかでも今回はMotorz的切り口として、モータースポーツのために生まれたサラブレット、ストラトスの開発ストーリーを中心に見ていきたいと思います。
カロッツェリアの時代
戦前から戦後の自動車産業の黎明期、大手のメーカーと並び数多く存在していたのが、いわゆるカロッツェリアと呼ばれる自動車工房でした。
少量の生産規模をベースに、富裕層からの少数オーダーに応え大量生産車を改造したり、時に設計から一貫してスペシャルオーダーを仕上げたりと、その規模のコンパクトさを武器に顧客やメーカーのニーズにあったクルマを製作していました。
さらに、より良い顧客を得るために、優秀なカロッツェリアには優秀なデザイナーが所属している事もまた常識。
なかでも才能あるデザイナーを見出し、数多くの名車を世に送り出したのがヌッチオ・ベルトーネ率いる”ベルトーネ”でした。
かの大天才、ジョルジェット・ジウジアーロを輩出したことでも知られる伝説のカロッツェリアです。
一貫した生産能力を誇り、実際1960年台には31,000台を自社工場で製造し、数々の名車を世に送り出していました。
マルチェロ・ガンディーニの生い立ち
マルチェロ・ガンディーニは1938年、自動車の街として知られるイタリア・トリノに生まれ、時間を見つけてはクルマのスケッチなどに明け暮れる青年でした。
1950年代に入り、Osca(マセラーティ創業者兄弟が立ち上げたカロッツェリア)からレースカーのデザインを任されたことから、カーデザインの世界に足を踏み入れることになります。
ガンディーニは予てからベルトーネ入りを目論んでいました。しかし、ヌッチオ・ベルトーネは期が熟すまでに彼の参加を一旦は断り、小さなカロッツェリアで経験を積み、十分脂が乗ったというタイミングまでその成長を見守るのです。
そしてついに1966年、大天才ジョルジェット・ジウジアーロの後任としてベルトーネのチーフデザイナーにヌッチオ本人による推薦で抜擢されます。
ランボルギーニ・ミウラ
ジウジアーロがカロッツェリア・ギアに移籍しベルトーネを去った当時、ベルトーネはランボルギーニ初のV12搭載ミドシップクーペのプロジェクトを進めていました。
そして、チーフデザイナーとして後を引き継いだガンディーニが、最初の仕事として世に送り出したクルマこそ、言わずと知れた名車、ランボルギーニ・ミウラです。
優れたスタイリングを持った前代未聞のクルマは、一気に「トラクター屋」であったランボルギーニに注目と喝采を浴びせることとなったのです。
このミウラは、スケッチから首尾一貫してガンディーニの作品でした。
しかし今見るとやはり、後のカウンタックや多くのコンセプト・カーのように、直線を基調とした彼らしいスタイルとはどうも何かが違うことが見てとれます。
故に「ミウラはジウジアーロの作品」という憶測まで飛びました。
実のところその理由は、彼がベルトーネの伝統、そしてジウジアーロのスタイルを尊重し取り入れたから、と言われています。
いずれにしても、横置きV12ミドシップという誰も見たことのないクルマを、当時の流行とベルトーネの伝統まで包み込んで形にする手腕は、見事としか言いようのないものでした。
実際ガンディーニの真骨頂とは、絡み合う要求を纏め上げ、美しいものに昇華する力だということを後の数々の作品群で証明することになるのです。
ストラトス・ゼロ
ガンディーニはその奇抜ともいえるセンスで、時代を超越したコンセプトカーを多く手がけました。
そして、1970年のトリノショーに、目を見張る1台のコンセプトカーが姿を現します。
そのガンディーニの手による未来のマシンは”ストラトス・ゼロ”と銘打たれ、戦闘機のようなハッチを開いて搭乗する独創性に加え、誰一人見たことのないくさび形の独特なラインを持っていました。
その名の由来は英語の”stratosphere”、意味はずばり”成層圏”です。
当時、ベルトーネのすべてのコンセプトカーを手がけていたガンディーニにとっても、純粋なコンセプトに過ぎなかったこのストラトス・ゼロ。
ランチアもショーカーとしか考えてはおらず、市販化は「微塵も無い」と考えられていたようです。
しかし、”成層圏”の名を持つこの戦闘機のようなマシンが、まさか砂埃舞うラリーの舞台に現れようなどとは…この時、誰が予想できたでしょうか。
デビューへの光明
その当時のランチア・ワークスチームは、フルヴィアの後継としてラリーで勝てるマシンを渇望していました。
しかしFIAT傘下に落ち着いた当時のランチアはラインナップを縮小されており、新型車開発はあまり期待の出来ない状況でした。
そんな中、ランチア・ワークスチームの責任者、チェーザレ・フィオリオは、市販車を改造するくらいならゼロから作るのがいい。
しかもミドシップならいうことはない。とというもっともな理想を描いていました。
そこにベルトーネ側からの猛烈なストラトス推しがあり(ストラトス・ゼロはミドシップだった)、両者の思惑が実を結び、ここにストラトスはラリーコンペティション専用マシンとして、現実の舞台に誕生するチャンスを得たのです。
しかし、ここでもう一度ストラトス・ゼロのデザインを見ていただきたいのですが、
どうでしょう。このクルマでラリーに出ていくという発想、どうも無茶に感じないでしょうか?
どうみてもこれはGTカーであって、ラリーカーのベースになり得る要素など皆目見当たりません。
今も昔もファンの多い名車、ランチアストラトス。
次のページでは、市販化、そしてWRC参戦までを一気に振り返ります。