いよいよ開幕間近となった2016F1日本GP。今年で28回目を迎える鈴鹿サーキットでのレース。数々の名勝負が繰り広げられ、また多くのワールドチャンピオンも誕生した伝統的なレースだ。その中で鈴鹿では勝ち星がなく、毎回チャンピオン争いになると敗者の側にまわっていたドライバーがいる。ナイジェル・マンセルだ。今回は彼の日本GPでの戦いを中心に振り返っていこうと思う。

©鈴鹿サーキット

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1987年:フリー走行でまさかのクラッシュ、決戦前に敗北が決定(vsネルソン・ピケ)

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鈴鹿でのF1日本GP初開催となった87年。いきなりマンセルはチャンピオン争いの中心人物となる。

前年、ウィリアムズ・ホンダが始めてコンストラクターズタイトルを獲得。

この年も開幕戦から好調で2年連続でチャンピオンを獲得。あと注目が集まったのはチームメイト同士の争いとなったドライバーズタイトルだった。

ここまで6勝を挙げたがリタイアなどノーポイントが多くネルソン・ピケが先行。マンセルは残りの日本GPと最終戦のオーストラリアGPで連勝が必要な状況だった。

当時、初開催のサーキットでは金曜からのセッションに先立ち、木曜日にも特別にフリー走行が設けられ、ここでトップタイムをマーク。予選に向けて一歩リードしたかに思えた。

ところが金曜の公式予選で、まさかの展開が待ち受ける。

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果敢に攻めていたマンセルだったが、S字を抜けたところでスピンを喫し、そのままタイヤバリアに激突。マシンは宙を舞い地面に叩きつけられるように停車した。

自力でマシンを降りることができず、駆けつけたマーシャルに救助され、そのまま名古屋の病院へ。診断の結果、週末のレース参戦は不可能と判断され、欠場が決まった。

同時にピケの3回目のワールドチャンピオンが決定した。

過去11回のドライバーズチャンピオン決定の場となった鈴鹿。その最初の決着は、あまりにもあっけないものだったのだ。

 

1990年:予選で肉薄するも、最終的にチームメイト撃破ならず(vsアラン・プロスト)

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1989年にフェラーリ移籍を決断したマンセル。この年のチャンピオンに輝いたアラン・プロストも同チームに加入。

1990年はエース格2人のコンビが誕生。他のグランプリでも激しいバトルを繰り広げたが、日本GPで予選から激しい火花を散らした。

チャンピオン争いはアイルトン・セナとプロストによる争いとなっていたが、予選1回目から2人の間に割って入る速さを披露。予選2回目でもいち早くタイムアタックし1分37秒719をマーク。

最終的に2人に逆転されてしまうが、それに匹敵する速さをアグレッシブさを予選から披露した。

翌日の決勝では序盤から波乱続きに。セナとプロストはスタート直後の1コーナーで接触しリタイア。代わってトップにたったゲルハルト・ベルガーは2周目の1コーナーでスピンアウト。

前周での混乱でコース上に大量の砂が出ており、それで滑ってしまったことが原因と言われている。

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いきなりライバル3人が姿を消し、トップに浮上したのはマンセル。後続を順調に引き離すレースで「90年の優勝はマンセルだ」と誰もが思った。

ところが、途中のタイヤ交換でピットに入ってコースインするために再発進した際にドライブシャフトを破損。そのままリタイアとなってしまう。

鈴鹿での初優勝という千載一遇のチャンスが消えてしまったマンセル。ステアリングを叩いて悔しがっていたのが印象的だった。

 

1991年:鈴鹿F1史上に残る“中身の濃い10ラップ”(vsアイルトン・セナ)

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この年のチャンピオン争いはセナとマンセルの一騎打ち。ホンダV12エンジンの圧倒的なパワーで勝るセナに対し、熟成中のハイテクシステムとエイドリアン・ニューエイがデザインした空力面でも優れたマシンで勝負に挑むマンセル。

決着の舞台は、この年も鈴鹿になった。

予選では1分34秒台が連発するハイレベルの戦いとなり、ベルガーがポールポジション、セナが2番手、マンセルは3番手とライバルにフロントローを奪われてしまう。

このレースでマンセルの先行を許さなければいいセナは、スタートからベルガーを逃げさせ、自身はマンセルを徹底的にブロックする展開に持って行く。

一方のマンセルは何が何でも優勝が必要。1周目からセナの背後につけコーナーを問わずに並びかけようとする。

そのバトルは周回を重ねるごとに激化。両者の思惑とチャンピオンへの思いがぶつかり合う、中身の濃い序盤戦となった。

とは言ってもセナが有利の中で迎えた10周目。1コーナーでわずかに膨らんでしまったマンセルは、そのままスピン。

サンドトラップに埋もれてしまい脱出不可能になり、リタイアを余儀なくされた。またしても、鈴鹿でのチャンピオン争いに負けてしまった。

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しかし、最大のライバルであるセナと真っ向勝負で戦い、互いに全力を尽くした結果での決着。

レース後、パルクフェルメに帰ってきたセナとがっちり握手をかわしライバルのチャンピオン獲得したを祝福したシーンは、多くのファンに感動を与えた。

 

1994年:雨の中で一歩も引かないバトル、最後に勝ったのは…?(vsジャン・アレジ)

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1992年に初のチャンピオンを獲得したマンセルは、そのままF1を離れアメリカのインディカーに参戦。

実質的にF1引退となったのだが、1994年にかつてのライバルだったセナが事故死。

その代役としてデビッド・クルサードがテストドライバーから昇格し参戦していたが、シーズン途中のフランスGPと終盤3戦はマンセルがステアリングを握ることになった。

その一つの舞台となった鈴鹿で、今度はジャン・アレジと大バトルをみせる。

決勝は大雨によりアクシデントが続出。途中に赤旗中断となり、レースは異例の2ヒート制(赤旗前と赤旗後のレースの合算タイムで順位が決定)で行われた。

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特に後半は戦略の違いもあり上位陣がバラける展開となったが、その中で3番手を走るアレジにマンセルが接近。西ストレートを中心に果敢にイン側に飛び込もうと狙っていく。

しかしアレジも名門フェラーリに表彰台をもたらすべく一歩も引かない。

西ストレートでは毎周にわたってアレジのバックオンボード(後ろ向きに取り付けられた車載カメラ)が映し出され、水煙の中でパッとイン側に現れるマンセルのマシンが映るとスタンドからも声援が飛び交っていた。

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レース後半のほとんどで接近戦を繰り広げた2台。

最終ラップでマンセルがついに扉をこじ開けて前に出るが、2ヒート制合計タイムを考えると、アレジに対して5秒以上の差をつけないといけなかったため、最終的に3位はアレジのまま。

マンセルは悔しい4位となったが、キャリアの中で最初で最後となる鈴鹿での完走を果たしたレースとなった。

 

まとめ

©鈴鹿サーキット

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これまで数多く名勝負が繰り広げられてきた鈴鹿でのF1日本GPだが、どうしても勝ったドライバーのバトルが取り上げられがち。

その点でマンセルは、あれだけの存在感と速さ・強さを持っていたにも関わらず、日本GPでは未勝利のままに終わってしまった。

それでも、こうして振り返ると、彼の荒々しくダイナミックな走りは今でも多くのファンの心の中に刻まれているのは確か。

彼の熱い走りがあったからこそ、名勝負が生まれた…とも言えるかもしれない。

©MOBILITYLAND

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2014年にゲストとして日本GPに来場した際には、彼のトレードマークだった口ひげをわざわざ蓄えて来場してくれ、ファンとも交流。両者ともに大喜びだった。

簡単には実現しないだろうが、またいつか鈴鹿に登場して、現役当時の話をゆっくり聞きたいものだ。

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