日本でF1のダイジェスト放送がスタートした頃に活躍し始めたナイジェル・マンセル。当時の日本では「マンチャン」の愛称で慕われていた「愛すべき大英帝国の息子」のレーシングドライバーとしての生涯をご紹介したいと思います。

@鈴鹿サーキット

 

「無冠の帝王」と呼ばれ続けたマンセル

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アグレッシブな走りで常にファンを魅了してきたナイジェル・マンセル。

しかし、あと一歩のところでチャンピオンに届かず、母国イギリスの先輩に当たるスターリング・モス同様に「無冠の帝王」と呼ばれ、このままキャリアを終えるのではないかと思われていました。

しかし1992年にF1でワールドチャンピオン、1993年にインディーカーでチャンピオンを獲得。苦労人マンセルがついに報われる時がきたのです。

チャンピオン獲得までのマンセルは、非常に多くの苦労と波乱万丈な人生を経験しており、それを知る家族や関係者そしてファンにっても本当に喜ばしい勝利でもありました。

今回はそんな苦労人、彼の歩んだキャリアを振り返ってきたいと思います。

 

過酷な下積み時代

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ナイジェル・マンセルのキャリアはレーシングカートから始まります。

10歳から21歳までの間、レーシングカートでレースに参戦。

その間に工学を学び、航空宇宙学のエンジニアとして活動していました。その時の知識や経験は、後のレースキャリアにおけるセッティングなどに大きな影響を及ぼします。

22歳からは4輪に転向し、フォーミュラフォード、F3、F2へとステップアップしていきました。

マンセルの下積み時代は資金繰りと怪我に悩まされる事が多く、フォーミュラフォード時代には、チャンピオンを争っている最中に頸椎骨折。

チャンピオンは絶望的だと思われていた中、ギプスを巻いてレースに復帰し1977年度のチャンピオンを獲得しています。

また、ロータスF1テストドライバーの選考テスト直前にはF3で脊椎骨折。

鎮痛剤を通常の何倍も打ち選考テストに参加するも、テスト前にはロータスの関係者とマンセルでこんなやり取りがあったと言われています。

「事故でひどい怪我をしたと聞いたが?」

「それは同姓同名の別人じゃないですか?」

本来であればテストは中止、もしくは延期となってもおかしくない状況のなか、チャンスを掴もうとする姿勢は後に苦労を重ねてワールドチャンピオンを獲得するマンセルの原点と言えるのではないでしょうか。

そして、満身創痍の中、諦める事なくチャンスを掴んだマンセルは、1980年にロータスF1のテストドライバーの座を射止めたのです。

 

初優勝までの長い道のり

©︎Pirelli

1980年、ロータスF1でテストドライバー務めながらF3とF2にも参戦。

そしてシーズン中盤のオーストリアGPでスポット参戦ながらF1デビューを飾ります。

デビュー戦でもトラブルに見舞われたマンセルは、車内に流れ出たガソリンにより背中に大火傷を負ってしまいますが、その痛みにも耐え見事完走を果たします。

当時ロータスのオーナーであったコーリン・チャップマンも、彼のガッツに惚れ込み、翌81年にレギュラードライバーの座を射止めました。

©︎Pirelli

84年まで在籍するこのチームロータスの戦闘力は高いものでしたが、恩師チャップマンが亡き後の新体制に馴染めなかったマンセルは、慎重な走りに徹したこともあり、結局勝利を挙げる事なくチームを去っていくのです。

翌85年からは、ウィリアムズ・ホンダに移籍します。

そして地元イギリス・ブランズハッチで行われたヨーロッパGPで、マンセルは遂にF1初優勝を飾ります。

デビューから72戦目に手にしたこの初優勝は、当時の最遅記録でもありましたが、この初優勝を境に今まで秘めていたマンセルの闘志が燃え上がり始めました。

 

ライオンハート、マンセル

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その攻撃的なスタイルを獅子心王に揶揄されたマンセル。

初優勝から波に乗り出したマンセルは、1986・87年とアグレッシブなレースを展開し常に見せ場を作りながら、チャンピオン争いをするまでの存在となっていきます。

しかし86年はタイヤバーストにより最終戦で逆転され、チャンピオンを逃します。そして、翌87年は日本GPでのクラッシュによりチャンピオンを逃してしまうのです。

その後、1988年のウィリアムズ低迷を機に離脱を決意し、1989・90年をフェラーリで過ごしたマンセル。

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フェラーリでも変わらずにアグレッシブなレースを展開したマンセルは、情熱的な監督であるチェザーレ・フィオリオとのタッグにより跳ね馬ならぬ暴れ馬と変貌を遂げ、フェラーリらしい一時代を築くのです。

しかし、チーム体制に不満を持ったマンセルは離脱を決意。

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心機一転91年はウィリアムズに復帰し、チャンピオン争いを展開しますが、序盤戦はマシンの信頼性不足に悩まされ、最後は日本GPでコースオフを喫し、チャンピオンを逃してしまうのです。

しかしこの波瀾万丈なキャリア、アグレッシブなレース展開、無冠の帝王ぶりがマンセルの真骨頂であり、ファンの心を掴んでいったのでした。

 

驚くべき危機回避能力とアイデア

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マンセルはレース中に驚くべき危機回避を何度も見せています。

1986年、チャンピオンを逃すこととなる最終戦では、狭い市街地コースを300Km近い速度で走行中にタイヤがバーストしたにも関わらず、どこにも車をぶつけることなくエスケープゾーンに逃げ込み事なきを得ています。

1990年のサンマリノGPでは300Kmを越える速度でグリーン上にはみ出したマンセルは、そのままの速度で360℃のスピンをしながらコースに復帰すると言う離れ業を見せました。

https://youtu.be/qGvQfVMWBSw

また、1989年のベルギーGPではヘアピンの縁石を乗り越え、セーフティエリアを利用した激しいバトルを展開しています。

後に「マンセルライン」と呼ばれるこのライン取りは、いかにもマンセルらしい奇抜な発想の1つでもあり、危機回避能力の高さだけではなくユニークなアイデアもマンセルの魅力と言えるのではないでしょうか。

 

暴れん坊将軍、マンチャン

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私生活では紳士だったマンセルですが、レースが絡むと熱くなってしまい暴れん坊とも言われたマンセルは、コース上やサーキット内で問題や話題となってしまう出来事も多くありました。

1989年のポルトガルGPでは、ピットロードでバックギアを使用した違反のため失格を伝える黒旗が振られますが、数周ににわたり無視をして走行を続けます。

そして、その年チャンピオン争いをしていたアイルトン・セナを、まるで狙撃するかのように接触し両者リタイア、黒旗無視に加え接触事故を起こすという危険行為により、罰金と1戦の出場停止処分を受けるのです。

1991年のポルトガルGPでは、ピット作業後にタイヤが脱輪。

違反となるピットロード上での作業を行ったために黒旗が振られます。

この時は黒旗に従い速やかにピットに戻りますが、マンセルがこの年のチャンピオンを逃すきっかけとなった出来事になりました。

また1990・92年と突然の引退劇を見せF1界を騒がせました。

90年は引退を撤回しF1に残留しますが、92年は自身の意志を貫きF1界から去っていったのです。

マンセルはモチベーションに左右される事が多く、どちらの引退もチームなどに不満を持ち、決意した経緯がありました。

また止まってしまったマシンを押してゴールし、直後に倒れこんだり、表彰式に向かうオープンカーから立ち上がり、観衆の声援に応えようとして前方不注意で橋桁に頭をぶつける事もありました。

1991年のカナダGPでは、優勝目前に謎のエンジン停止。

原因は不明ですが、観客席に手を振ろうとして誤ってキルスイッチに触れたためエンジンが停止してしまったという説があります。

良くも悪くも話題性に富んだドライバー、しかし受け入れられてしまうそのキャラクター、それがマンチャンでありファンを惹き付ける要素の1つとも言えるのです。

 

「無冠の帝王」ではなくなる時

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円熟期のマンセルが最強のマシンを手に入れた1992年、遂に念願のワールドチャンピオンを獲得します。

破竹の開幕5連勝を始め、のちに伝説となるモナコGPにおけるセナとの熾烈なバトルなどを経て、シーズン中盤のハンガリーGPで早々にチャンピオンの座を手にしたのです。

ウイニングラップで今までの苦労を噛み締めるようにゆっくりと走り終えたマンセルは、表彰台で「No.1!!」と雄叫びを上げ、苦楽を共にしたロザンヌ夫人は目に涙を浮かべて一言こう話したと言います。

「Longway(長かったわ)」

39歳と8日で獲得したこのチャンピオンは、苦楽を共にした夫婦にとって大きな夢を達成した瞬間とも言えるでしょう。

マンセルのチャンピオン獲得は、ライバルであるドライバーやチーム、ファンや関係者にとっても喜ばしいことであり、誰もがマンセルを祝福したのです。

そしてマンセルはこの92年をもってF1から引退します。

 

新たな挑戦と再挑戦

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1993年より心機一転、アメリカのインディーカーシリーズに参戦したマンセル。

93・94年と参戦したインディーカーでは適応能力の高さを発揮し、デビューした93年にシリーズチャンピオンとルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得します。

また94年にはインディーカーと並行して、バーニー・エクレストンのリクエストに応える形でF1にスポット参戦。最終戦のオーストラリアGPでF1での最後の勝利を収めるのです。

1995年はマクラーレンから参戦しますが、マシンがマンセルの体型に合わずチームとの折り合いも悪く、シーズン序盤でチームを離脱。マンセルはその後、F1で走ることはありませんでした。

F1引退後のマンセルは、ツーリングカーやグランプリマスターズ、FIA GT選手権などに参戦し、2010年には息子のレオとグレッグと共にル・マン24時間レースにも参戦しています。

今でもサーキットに元気な姿で現れ、時にはスチュワードを努めたりデモランを行うマンセル。

F1四天王と言われた風格を今も醸し出し続けているのです。

 

まとめ

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ナイジェル・マンセル特集、いかがでしたでしょうか?

「レッド5」を身につけたマンセルは炎のように赤く燃えた走りを展開し、ファンを沸かせてきました。

波瀾万丈なキャリアを過ごしたからこそ、誰からも愛され誰からも祝福されたマンセル。

正に「大英帝国の愛すべき息子」と言えるのではないでしょうか。

 

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