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「F1までは苦労の連続だった」元F1ドライバージャン・アレジ氏インタビュー|RacerzLife|

現役時代はフェラーリのエースも務め、多くのファンを魅了した元F1ドライバー「ジャン・アレジ」。いつも極限まで攻めるアグレッシブなドライビングで注目を集めました。また現在は息子ジュリアーノをはじめ、母国の若手ドライバーを育てるところに注力しています。アレジが持つ「レース」への思いとは?彼のレースキャリアについて迫りました。

©︎Tomohiro Yoshita

 

小さい頃からクルマが好きで、レーシングドライバーを目指す

幼少の頃からクルマが好きで、自然とレーシングドライバーを目指すようになったというアレジ氏。

今では、若手ドライバー育成のシステムがありますが、アレジ氏の頃はそういったものが全くなく、特にF1に行くまでは苦労の連続だったそうです。


©︎鈴鹿サーキット

ーーまずは、レーシングドライバーになろうと思ったきっかけを教えてください。

ジャン・アレジ:父がもともとクルマのガレージ(自動車修理工場)を持っていて、そこで生まれ育ったから、小さい頃かクルマらすごく好きだったし、レーサーになりたいと憧れて、ずっと「レーサーになる、レーサーになる、レーサーになる」と思っていたよ。

でも、その時はどれだけ難しいものかというのは気づかなかったね。また親からも“レーシングドライバーは職業じゃない”と言われたよ。確かにそれは正しいと思った。

だから僕も僕なりに何をしなければいけないかも勉強していかなければいけなかった。

©︎鈴鹿サーキット

ーーなるほど、レースを始めた当初の頃、苦労したことはありましたか?

アレジ:レースを始めた最初の頃が辛かった。限られた時間で覚えなきゃ行けないことがたくさんあった。今は若い子たちがレースをできるように、様々なサポートシステムがあるけど、僕たちの頃は一切なく、全部自分たちでやらなければいけなかった。

だからフォーミュラルノーでの2年が特に大変だったね。

F3では、2シーズン目でチャンピオンを獲得できた。そこから国際F3000にステップアップしたけど、そこもまた大変だったよ。

1年目はオレカというチームから参戦して、クルマやチームの運営がうまくいかなくて、結果が出ず。最後の方はすごく辛い思いをした。

そのシーズンの終わりにマールボロからのバックアップもなくなって、僕にとっては今のレッドブルのような立場(若手育成のためのスポンサー・サポートを受けていた)がマールボロだった。彼らのおかげでレースを転戦できていたのだが、援助がなくなった。

すごくガッカリして途方に暮れていた時、エディ・ジョーダンから連絡があり、「F3000の僕のチームに乗らないか?」とオファーをもらった。

それで、もう一度挑戦することができて、その年(1989年)はチャンピオンを獲得することができた。これが、僕にとっては最高のシーズンだった。

©︎Tomohiro Yoshita

ーーそんな苦労があったんですね。サポートがないという難しい状況があった中、どうやってレースを続けていたのですか?

アレジ:父はずっと僕にはポテンシャルがあると思っていたから、熱心にサポートはしてくれた。F3に参戦し始めて結果が出るようになればスポンサーがつくようにもなっていったので、そこからは楽になっていったよ。


こういった苦労を乗り越え、1989年フランスGPでF1デビュー。翌年ティレルに移籍すると、いきなりアイルトン・セナと互角の戦いを繰り広げるなど、周囲を驚かせる走りをみせました。

そして、念願のフェラーリのレギュラーシートを獲得するのです。

 

フェラーリドライバーであることの“誇り”と“プレッシャー”

ジャン・アレジといえば、やはりフェラーリのエースナンバー「27」を背負って走っていたドライバー。1991年のチーム加入時から地元イタリアのファンたちの期待は相当なものだったそうです。


©︎鈴鹿サーキット

ーーF1でもなかなか勝てない時期がありましたが、苦労されたことはありましたか?

アレジ:やっぱりフェラーリに入った時かな。イタリアのファンみんなが“良い結果を出してくれよ!”という期待があったから、フェラーリの一員としては国をかかえるわけじゃないけど、結果を出さなきゃいけないというプレッシャーが大きかった。

特に当時はマクラーレン・ホンダやウィリアムズ・ルノーなど強いライバルばかり。なかなか彼らを上回ることができなかった。大変だったけど、楽しかった。ドライバーとしても良い思いをしたことがたくさんあった。

大変な時期があったからこそ、自分の情熱で乗り越えられるプレッシャーではあったね。

©︎鈴鹿サーキット

ーー大変な時期も多かったと思いますが、レースキャリアの中で一番嬉しかった瞬間はありましたか?

アレジ:F1で初めてレースに出た時だったね。ファンタスティックな週末だったよ。予選の結果もすごく良かったし、決勝では4位に入った。この時に“僕はF1でも十分に戦っていけるんだ”と自信を持つことができた。忘れられない経験だったね。あとは初めて表彰台に上がったフェニックス(1990年アメリカGP)やモナコだね。あの時は最高だったね。

もちろん、初優勝の時(1995年カナダGP)も良い思い出の一つだが、決して一番嬉しかった瞬間ではなかった。

なぜなら、その時はもっと前から優勝できるだけの速さを持っていた。だけどクルマのトラブルとか不運とかで、優勝できなかった。だから、どちらかというと初レースや初表彰台の時の方が嬉しかったね。

あと、フェラーリと契約した時。幸せや嬉しさも、一生忘れられないね。

 

現役時代は、ほぼ毎日マシンに乗っていた

今ではレーシングドライバーたちも、レースがない日は様々な活動をしていたりしますが、アレジ氏の現役時代は、テスト走行の制限がなかったため、ほぼ毎日のようにマシンに乗っていたそうです。


©︎鈴鹿サーキット

ーーレースがない日は、何をして過ごしていましたか?

当時は今と違って、レースがない日は毎日のようにテストしていたよ。だいたい月・火曜が休みで水曜日にはコックピットに戻っているような感じ。

シリーズの最初の方は、世界中を回っていることが多く、常に移動している感じだった。余裕がある月・火曜日は休息に充てていた。

南フランスにあるサマーハウスなどでゆっくりして、次のレースやテストに向けて準備をしていた。僕のレースの仕事以外では休むことに専念していたよ。

 

息子ジュリアーノへの思い…

現在は、後藤久美子さんとの間に生まれた長男ジュリアーノがGP3シリーズに参戦。彼を一人前のドライバーにするべく、一緒に活動しているとのこと。息子への期待や思いも語ってくれました。


©︎Tomohiro Yoshita

ーー引退してから、しばらく経ちますが、今は何かモータースポーツに関わることをされているのですか?

アレジ:ほとんどの時間を息子のジュリアーノに費やしている。彼とほんとうに一緒にいることが多いね。彼のスポンサーも見つけてきたけど、僕をイメージとして(ネームバリューを利用して)スポンサーを獲得してきている部分もあるので、二人三脚で頑張っている。

フランスのテレビ局でグランプリのコメンテーターもしているし、FFSA(フランス自動車スポーツ連盟)で、キャプテンを務めており、母国の若手ドライバーの教育を手伝っている。

毎年、1週間ほどのトレーニングキャンプを設けて、ドライバーのあるべき姿、練習の方法、いろんなことを訓練する場を用意しています。

今年スーパーフォーミュラに参戦するピエール・ガスリーも、FFSAメンバーの一人。過去にもロイック・デュバルや、ロマン・グロージャン、ジュール・ビアンキも参加していたよ。

ジュリアーノ・アレジ(©︎Tomohiro Yoshita)

ーー息子さんには、どんなドライバーになって欲しいですか?また自分で成し遂げられなかったことも達成して欲しいと思いますか?

アレジ:もちろん、僕を超えるドライバーになってほしい。彼は素晴らしいドライバーになれる素質があるからこそ応援している。もし、そうでなければ、絶対に勧めないしドライバーになってほしくない。元レーシングドライバーである僕にとっては、その人がレースに対する素質があるかないか見分けることが簡単にできる。僕は必ず彼はできる(成功する)と思っているからこそ、バックアップしているんだ。

僕はF3000に乗ったのが23歳の時。今ジュリアーノが乗っているGP3はF3000と同等レベルのものだけど、それを16歳で非常に若いうちに経験できている。

でも、僕の場合は普通のクルマを運転してレーシングドライバーになっているけど、彼はそのような経験がなくカートから非常に速いクルマに乗っている。そこへの合わせ込みは僕らの頃より時間がかかると思っているし、スキルが必要だなと感じているところだよ。

 

ーー奥さんは、ジュリアーノがレーシングドライバーになることについてどう考えていらっしゃるのですか?

アレジ:特に反対はしていないよ。ただ、いつも“ジュリアーノは、この道に進んでも大丈夫なのか?”ということを聞かれていた。それに対し僕は“レーシングドライバーとしてやっていけるという確信があるということはずっと伝えていた。

よく親の勧めで無理やり始めて、最後は子供の方が嫌になって諦めてしまうこともあるが、僕はそうしたくなかった。でも彼はレーシングドライバーになりたいし、それを実現できる素質があるからこそ、我々はジュリアーノを全力でバックアップしているよ。

 

そのクルマのベストパフォーマンスを追求していくのが面白い

©︎Tomohiro Yoshita

ーー最後にアレジさんにとって、レースとは?

アレジ:特別な存在だね。僕はクルマが大好きで大切なもの。どんなクルマでも試すのが大好きで、ドライビングを楽しみたいと常に思っている。

もちろん、レースになればライバルに負けたくないという気持ちも出てくるけど、なによりも“クルマが持つパフォーマンスのベストを出し切るにはどうすればいいか?”というところに快感だね。

もちろんナンバー1になることも重要だけど、それが一番の目標じゃない。このクルマのベストを出すという部分を追求するのが、僕にとってレースで一番面白いところだね。


どうしても、レースというと「トップを目指す」というのが、当たり前の目標になっていますが、アレジ氏はそこよりも「限界まで攻めていくこと」に魅力を感じていたとのこと。そう考えると、特にF1で披露してくれたドライビングに通ずるところもありますね。

 

まとめ

©︎Tomohiro Yoshita

鈴鹿ファン感謝デーの、多忙な出演スケジュールの中で取材に応じてくれたアレジ氏。最後まで優しく丁寧に対応してくれたのが、印象的でした。

そして、彼の両親が全力でサポートしてくれた経験をもとに、ジュリアーノへのバックアップも惜しみなくやっている事も感じられましたし、現役時代の限界ギリギリまで攻めていくドライビングスタイルの原点も垣間見ることができました。

アレジ氏の今後の活動はもちろんですが、彼の思いを受け継いでF1を目指しているジュリアーノの活躍にも、目が離せません。

 

ジャン・アレジ F1通算成績

参戦期間:1989年~2001年(12年間)
出走回数:202回
優勝回数:1回(1995年:カナダGP)
表彰台獲得回数:32回
ポールポジション:2回
最終戦:2001年日本GP

・参戦チーム
1989年-1990年:ティレル
1991年-1995年:フェラーリ
1996年-1997年:ベネトン
1998年-1999年:ザウバー
2000年-2001年:プロスト
2001年-ジョーダン

 

 

 

 

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Writer Introduction
Tomohiro Yoshita

フリーのモータースポーツジャーナリスト。サーキット取材は2011年からスタートし、最近ではSUPER GTスーパーフォーミュラを全戦取材。この他にもF1をはじめとする海外レースや、2輪レースもカバー。レースに関する記事だけでなく、サーキットに来場するファンに役立つ情報発信も展開しています。

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