スポーツカーレースがお好きな方なら、世代を超えて「紫電」という名前には聞き覚えがあるはずです。由良拓也氏率いるレーシングコンストラクター・ムーンクラフトがオリジナルマシンとして製作した初代「紫電」はそのスタイリングの美しさから多くの人に愛され、2000年代にはスーパーGTを舞台にその名を復活させ、ドライバーズチャンピオンにも輝きました。早速ですが、今回はムーンクラフトの代名詞と言える「紫電」について掘り下げてみたいと思います。

出典:http://ecomodder.com/

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紫電はこうして生まれた

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富士GCを沸かせた、高原敬武氏のムーンクラフト・マーチ。 出典:https://www.mooncraft.jp/

レーシングカー・デザイナーとして活動を始めて間も無かった由良拓也氏が、若くしてムーンクラフトを立ち上げたのが1975年。

富士グランチャンピオンレース(富士GC)で、外国製レースカーのカウルをほとんど由良氏の造形的センスだけで富士仕様にカスタムし、空力的に優れたボディラインを発明、結果を残していました。

そして高原敬武選手のGCマシンとして「ムーンクラフト・マーチ」のボディカウルを手がけた75年、76年には富士GC2連覇を達成。オーナードライバーである高原選手と由良氏の次なる目標は、完全オリジナルマシンでのGC参戦へと向かいます。

ムーンクラフトを始めGC参加コンストラクターの描く夢といえば、フェラーリやポルシェに習ったオリジナルマシンの製作でしょう。

自動車メーカー以外がシャシー含めてオリジナルマシンを作成することは、当時日本では殆ど前例がなかったのです。

更に、高原レーシングをスポンサードしていたガレージ伊太利屋も、オリジナルマシンの計画には大いに乗り気だった模様。

そうして高原選手と由良氏の間で巻き起こったこの計画は、実現に向けて動き出すことになるのです。

 

紫電・77(1977年)

1976年の夏頃から計画がスタート。車体設計はレーシングカーデザイナー森脇基恭氏、そしてボディデザインを由良拓也氏が手がけ、当時トップコンストラクターのひとつだった伊藤レーシングが車体製作を担当。

これは当時のドリームチームといえる布陣でした。

おまけにGC2連覇に加え、76年全日本F2000チャンピオンと乗りに乗る「日本一強い男」、高原敬武選手がステアリングを握るとあって、出走前から大きな注目を集めました。

出典:http://www.supercars.net/blog/1977-mooncraft-shi-den-2/

シャシー設計を手掛けた森脇基恭氏は、90年代のF1中継解説で人気を博した人物です。出典:http://www.supercars.net/

そして1977年3月20の富士GC開幕戦「富士300キロスピード」のウィーク中、「紫電」と名付けられたそのマシンは遂にベールを脱ぎます。

流麗で凝ったディテールが散りばめられたクローズドボディ、ポルシェ917LHのようなロングテール、そしてピンクを基調とした旬な「伊太利屋カラー」も斬新。

ボディワークはもちろん、そのカラーリングに至るまでを由良拓也氏が手がけた、まさに完全オリジナルマシンでした。

そしてボディのみならずシャシーも専用設計とされており、更にコクピットまわりは高原選手のジャストサイズでいわば「オーダーメイド」されています。

富士GC史上初だったクローズドボディを選択した理由については当時、クローズドのほうが空力的に優れているという知見が一般的だった為です。

風洞などが無い当時、例の如く由良氏の「空気を描く手先」だけでこのマシンの美しいボディラインは描かれたといえます。

この開幕戦でテストランを行った後、第2戦「富士グラン250キロ」で本戦デビューを果たし、高原選手は一時6位を走行。

しかしブレーキトラブルでリタイアを喫しています。

出典:http://park3.wakwak.com/~tonupboy/car/1977/image/shiden01.jpg

デビュー時の紫電。実物は驚くほどコンパクト、コクピットは非常に狭いとのこと。出典:http://park3.wakwak.com/

ところが、高原選手は早くもこの第2戦で紫電に”見切り”をつけ、第3戦からシェブロンに乗り換えてしまうのです。

実はこの紫電、レースカーとしていくつかの問題点を抱えていました。

クローズドボディの採用は空気抵抗の低減を狙ったものでしたが、ルーフ分上部の面積が増えるクローズド・ボディではダウンフォースとは逆の揚力(リフト)が大きくなる宿命にあるのです。

もちろん、それらを見越してリップスポイラーや大型のリアウイング、ホイールハウス上のスリットなどを備えていましたが、結局のところルーフがなくリフトの影響を受けにくいオープンプロトに比べると、不利であることに変わりはありませんでした。

また、富士のロングストレートで速度が伸びる様に採用された美しいロングテールは、それ自体が重かった為、ハンドリングに悪影響が出るという状況。ウインドウを持つ故、雨の日の視界にも悩まされました。

こういったカウルの問題に加え、シャシー自体も並行してオリジナル・新開発のものが使われていた為、熟成においてこれら複合的な問題が絡み合って「どこから直していいか分からない状況を生んでいた」、とも言われています。

しかし、オイルショックのダメージから低迷し、まさにそこから這い上がろうとしていた国内レースシーンに「純国産オリジナル・マシン」の登場は夢と活力を与えたのは事実であり、その挑戦そのものに他チームからも賞賛が送られたのです。

 

歴代紫電を振り返る今回の企画。

次のページでは、紫電改や、復活した紫電。そして、軽自動車の紫電なんていう意外なマシンまで登場します!