ヤマハはUSインターカラーや赤白ストロボなど、インパクトの強いカラーリングを採用し、多くのヤマハファンを虜にしています。そんな、ヤマハのカラーリングに秘められたストーリーを紹介します。
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ヤマハといえばどんなカラーリング?
ヤマハのレジェンドカラーといえば、チェーンブロックやスピードブロック、ストロボなど独自のデザインが印象的です。
また、ヤマハは2005年に創立50周年を記念し、MotoGPマシンYZR-M1のカラーリングに、赤・白の『スピードブロックカラー』と黄・白・黒の『USインターカラー』を復活。伝説のファクトリーカラーを前に、多くのファンが魅了されました。
歴史を遡れば、赤・白、スピードブロック、USインターカラー、ストロボなど時代と共に変化し、現行モデルでは青がフラグシップカラー。
そのため、「ヤマハといえばこのカラー」というのはヤマハのファンそれぞれ異なってきます。
ヤマハファクトリーチーム初期は赤白カラー
1950年代、ヤマハが浅間火山レースに出場していたころのファクトリーマシン YDS-1は、タンクからシートまで赤一色のカラーリングでした。
その後、1961年のロードレース世界選手権に投入されたRD48やRA41は、ホワイトの車体にタンクのみ黒と、非常にシンプルなデザイン。
1964年にヤマハが初めてタイトルを獲得したRD56は、白を基調にフロントカウルには赤いラインが入ったカラーリングでした。
まだ、この当時はヤマハ独自のチェーンブロックは施されておらず、赤・白は日本の日の丸をイメージしたものとされています。
キング・ケニーにより広まったUSインターカラー
チェーンブロックの発祥は、アメリカでした。
ヤマハは、1958年にカリフォルニア州のサンタカタリナ島で行われたカタリナGPへの参戦をきっかけに、本格的にアメリカ市場の展開を開始します。
当時のヤマハ発動機は日本楽器製造(現:ヤマハ楽器)から分離したばかりの小さな企業だったため、親会社であるヤマハ楽器の現地法人『ヤマハ・インターナショナル・コーポレーション(YIC)』を拠点にモーターサイクル事業を展開していました。
そのため、レースに投入するマシンのカラーリングは、目立つように黄色を基調に黒いラインを入れたカラーリングにする予定でした。
しかし、レースチームのコンサル兼グラフィックデザイナーが、ただのラインじゃ面白くないと提案。
1972年に行われたデイトナ200マイルのマシンには、四角いブロックがチェーンのようなラインを描くグラフィックパターンが採用され、チェーンブロックと呼ばれました。
そうして黄色に黒白のチェーンブロックが入ったUSインターカラーが出来上がり、1973・1974年にAMAグランドナショナルシリーズでは、のちに『キング・ケニー』と呼ばれるようになるケニー・ロバーツ氏がタイトルを獲得。
1974年からシリーズ化されたAMAスーパークロスの初代チャンピオンピエール・カールスマーカー氏が乗ったマシンも、USインターカラーに塗られていました。
さらに、アメリカの国民的モータースポーツイベント『デイトナ200』では、1972~1984年までヤマハがタイトルを獲得し続けたため、その存在が全米中に一気に知れ渡り、黄色を基調に白・黒のチェーンブロックがあしなわれたUSインタカラーは、アメリカだけでなく全世界に認知されることとなったのです。
USインターカラーの影響で赤白スピードブロック登場
USインターカラーの影響力は大きく、1978年頃から世界選手権のヤマハファクトリーカラーにも、赤いラインに縦のスリットが入ったチェーンブロックが反映されるようになります。
このカラーは『ブロックパターン』と呼ばれ、ロードレースだけでなくモトクロスやトライアルにまで浸透。
後にマスコミやファンの間では、『ストロボ』と呼ばれるようになります。
この四角いブロックを連想させるカラーリングは後に多くのGPマシンや市販レーサー、ロードモデルにも採用され、赤白のストロボはヤマハワークスチームをイメージさせる『スピードブロックカラー』となったのです。
ヤマハブルーにも深い歴史があった
ヤマハのラインナップを見ると、スポーツモデルに採用されるレギュラーカラーは青を基調としたものが多く、赤白のスピードブロックやUSインターカラーはヤマハの特別記念モデルに採用されることが多くなっています。
そのため、ここ数年のヤマハといえば『青』。『ヤマハブルー』と呼ばれるほどになっています。
ちなみにヤマハの市販バイクのメインカラーが青となったのは、YZF-R1やXJR1300Rが登場した1990年代終盤で、その理由は明らかにされていません。
ヤマハブルーの起源はゴロワーズ
ヤマハの歴史をたどってみると、長くヤマハのモータースポーツ部門のスポンサーをしてきたゴロワーズの影響を感じます。
まず、1983年に登場したXT600テレネは青に黒白のストロボカラー。これは、1979年の第一回パリダカから参戦していたヤマハモーターフランスの前身であるソノートヤマハが1981年に採用していたカラーリングです。
のちに、欧州でのパリダカ人気を知ったフランスのタバコメーカー『ゴロワーズ』がスポンサーをつとめ、この時からパリダカに出場するヤマハファクトリーマシンは長い間ゴロワーズカラーでした。
しかも、ヤマハファクトリーのパリダカマシン『スーパーテレネ』は91~93年の3連覇、95~98年の4連覇を達成し、市販モデルも青を基調としたストロボカラーで売り出されました。
また、GPにソノートヤマハから出場していたクリスチャン・サロン氏もゴロワーズカラーのYZR500で上位に食い込み大活躍。
こうして、ヤマハのゴロワーズカラーがラリーを中心に欧州で認知され、1990年代からヤマハの市販モトクロスバイクに青のストロボカラーが採用されるようになります。
MotoGPでもゴロワーズカラーが定着
2001年にMotoGPに参戦していたテック3チームは、オリビエジャック氏と中野真矢氏を引き連れ、MotoGPクラスにステップアップ。参戦マシンのYZR500は、ゴロワーズカラーでした。
この年に中野氏がシリーズ5位に入り、ルーキーオブザイヤーに輝く活躍を見せたため、中野氏といえばゴロワーズカラーのYZR500を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
そして2004年にバレンティーノ・ロッシ氏は、ホンダワークスからヤマハワークスに移籍。
同時にヤマハワークスチームのスポンサーにゴロワーズが付くようになります。
ロッシは、ゴロワーズカラーのマシンを駆り、移籍1年目からタイトルを獲得。
このとき、ロードレース世界選手権の最高峰クラスでゴロワーズカラーのマシンが年間チャンピオンを獲得したのは初めての事でした。
その後、ヤマハのワークスマシン YZR-M1は、黄色のキャメルカラーだった時代はあるものの、フィアットやモビスターがスポンサーとなっても青色のカラーリングで統一。
現在モンスターがメインスポンサーを務めていますが、それでも青い部分は残っています。
また、バイクだけでなく、スノーモービルやジェットスキー、さらには除雪機にまでヤマハブルーは定着し、ゴロワーズから始まったヤマハブルーはヤマハ発動機全体のシンボルカラーになっていきました。
まとめ
元来、ヤマハ製GPマシンのカラーは白を基調に赤いラインの入ったカラーリングが基本でした。
しかし、アメリカのUSインターカラーの活躍により、USインターカラーに描かれた黒と白のブロックパターンは赤・白カラーにも反映され、スピードブロックカラーとなり、グラフィックデザインが変わってストロボと呼ばれるようになりました。
一方、欧州で高い人気を誇るパリダカラリーでゴロワーズカラーのテレネが活躍したことで、ヤマハに青のイメージが定着し、今に至ります。
ヤマハの歴代カラーリングはそれぞれの時代を反映し、音叉マークとともにシンボルとなりました。
その時々のカラーが、世界の強豪を相手に勝利を収めたてきた証でもあるでしょう。
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