1990年代前半のMotoGP™では、125ccクラスや250ccクラスといった小排気量クラスで、多くの日本人ライダーが輝かしい成績を残していました。その中でも、坂田和人氏はMotoGP 125ccクラスにプライベーターとしてフル参戦し、1994年と1998年の2度にわたり125ccクラスでシリーズチャンピオンを獲得している、世界屈指の小排気量クラスのスペシャリストです。しかし、そんな輝かしい成績を残してきた裏には、相当な苦労もありました……。そんな坂田氏のレースキャリアに迫ります!

 

 

 

小排気量クラスのレジェンドライダー坂田和人氏とは

 

1998年 坂田和人

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坂田和人氏は全日本ロードレース選手権、MotoGP™(ロードレース世界選手権)で活躍したレーシングライダーであり、現在は若手ライダー育成の指導者や、MotoGP™のTV放送での解説者としても活躍しています。

また、1994年にはMotoGP™の125ccクラスで日本人初のシリーズタイトルを獲得し、その後も小排気量クラスで世界トップクラスのライダーとして知られるようになっていき、イタリアで現地の人々から『サカティーノ』と呼ばれるほどの人気を博しています。

そして1999年までMotoGP™で戦った後は、4輪レース『日産・マーチ・チャンピオンカップ』に参戦したり、全日本GP125クラスにもスポット参戦。

2005年シーズンの全日本ロードレース選手権 第3戦筑波サーキットでは、予選でポールポジションを獲得し、現役ライダーを驚かせました。

その後2011年に、全日本ロードレース選手権に出場するF.C.C. TSR Hondaチームの監督に就任し、J-GP3クラスに出場した藤井謙汰選手を指導。

藤井選手はその2011年シーズンにシリーズチャンピオンを獲得し、翌2012年にはMotoGP™moto3クラスにフル参戦を果たしました。

また、現在の坂田氏は、MFJロードレースアカデミーの校長兼インストラクターとし、若手ライダー育成の指導に力を入れています。

 

3年で3度のチャンピオンを獲得

 

 

坂田氏がレースを始めたのは21歳のときで、1988年に参戦した筑波選手権ノービスクラスでいきなりシリーズチャンピオンを獲得。

翌1989年の全日本ジュニアクラスでもシリーズチャンピオンを獲得し、レース開始3年目で国際A級へ昇格。

さらに1990年の全日本国際A級クラス参戦1年目でシリーズチャンピオンを獲得し、レース開始3年で3つのタイトルを手にする事に!!

そんな坂田氏は、シリーズ戦に挑むうえでアクセルを全開にして速く走るのは予選のみとし、決勝はシリーズチャンピオン獲得のために結果を残すレースを毎回意識していたと語っています。

また、世界を意識したのは、国際A級125ccクラス参戦前に「今年チャンピオンになったら、世界GPに行けるぞ。」と言われた事がきっかけだそうで、当時の坂田氏にとってMotoGP™は全日本の延長であると話していました。

 

1991年に仲間たちと共にMotoGP™へフル参戦

 

1994年 坂田和人

出典:https://it.wikipedia.org/wiki/Kazuto_Sakata

 

坂田氏は上田昇(うえだのぼる)氏、故・若井伸之(わかいのぶゆき)氏と共に、1991年にMotoGP™へのフル参戦を果たします。

参戦費用はスポンサー活動で得た資金と働いて貯めた貯金のみで、プライべーターとしてワークスや強豪チームに果敢に挑戦していく事になりました。

マシンは戦闘力で劣るため毎回相当攻めた走りで挑みますが、その分転倒も多くなってしまいシーズンを通しての転倒回数は全部で35回。

これは、1991年シーズンにMotoGP™へ参戦したライダーで最も多い転倒回数でした。

また、ポイントを獲得できたのは6戦しかなく、参戦初年度のシリーズランキングは13位。

自己出資のため満足に予備部品を購入できず、右側がボロボロだったり左側がボロボロだったりするカウルを真ん中で切断し、繋ぎ合わせて使っていたそうです。

しかし、最終戦マレーシアGPでは自身初となるポールポジションを獲得し。

1990/1991年125ccクラスチャンピオンのロリス・カピロッシ氏と激しいトップ争いを繰り広げ、2位を獲得します。

翌1992年はF.C.C./T.S.Rチームに移籍しますが、マシンのサスペンションに問題を抱えていたにもかかわらず契約上それを改善することができず、そのままシーズンを戦わなくてはなりませんでした。

そのため一発のタイムアタックで結果が出ても、決勝レースでは順位を落としてしまうレース展開が多くなり、1992年シーズンで3度のポールポジションを獲得するも、ランキングは11位。

しかし1993年、シーズン開幕戦オーストラリアGPから第3戦日本GPまでは、すべて2位という快進撃。

その流れをもってへレスサーキットで行われた第4戦スペインGPに参戦するも、親友である若井氏がピットロードでの事故に巻き込まれて亡くなるというアクシデントが発生。

坂田氏や他の日本人ライダーが出走辞退を考えるほどショックな出来事となりました。

それでも亡くなった若井氏のために坂田氏は決勝レースへの出走を決意し、スタートから終始トップを快走。

ドイツ人ライダー ラルフ・ウォルドマンがトップの坂田氏との差を縮めてくるも、坂田氏は全開走行をラストラップまで続け、見事逃げ切って優勝。

坂田氏にとって初となるMotoGP™125ccクラス優勝を果たしたのです。

 

日本人初の125ccクラスチャンピオンを獲得

 

 

1993年シーズンのチャンピオンは、280ポイントを獲得したダーク・ラウディス選手で、坂田氏は266ポイントを獲得し2位でシーズンを終了。

参戦4年目となる1994年はホンダからアプリリアへマシンを移行し、日本人で初めてイタリア製マシンでMotoGP™ 125㏄クラスに挑みました。

そんな1994年シーズン開幕戦オーストラリアGPで、いきなりポールトゥウィン。

その後も優勝や表彰台を積み重ね、シーズン3勝・8表彰台・7ポールを達成します。

そして、最終戦の一つ前となる第13戦アルゼンチンGPで見事シリーズタイトルを決定。

その後もアプリリアのマシンで参戦を続けた坂田氏は、当時は日本人ライダーが125ccクラスのランキング上位を占めていたのですが、その中でも常にトップ争いを繰り広げていました。

 

 

1996年にMotoGP™125ccクラスでデビューしたバレンティーノ・ロッシ選手は、坂田氏をはじめとする日本人ライダーに走り方をよく聞きにきており、坂田氏も可愛い後輩であるロッシ選手にさまざまなアドバイスをしていたそうです。

その後、ロッシ選手は1997年に125ccクラスのチャンピオンを獲得し、翌年に250ccへステップアップしますが、坂田氏は125ccでレースを続け、1998年に2度目のシリーズタイトルを獲得しています。

 

坂田和人氏の主なレース成績

 

 

MotoGP™

 

シーズン クラス マシン チーム ランキング
1991年 125cc ホンダRS125 ELF Kepla-Meiko ホンダ 13位
1992年 125cc ホンダRS125 F.C.C./T.S.R Venus-ホンダ 11位
1993年 125cc ホンダRS125 F.C.C. Technical Sports-ホンダ 2位
1994年 125cc アプリリアRS125R Semprucci-アプリリア 1位
1995年 125cc アプリリアRS125R Team Krona-アプリリア 2位
1996年 125cc アプリリアRS125R アプリリア 8位
1997年 125cc アプリリアRS125R アプリリア 4位
1998年 125cc アプリリアRS125R アプリリア 1位
1999年 125cc ホンダRS125 ホンダ 14位

 

世界のトップライダーになってもアルバイト生活?

 

 

坂田氏は、普通自動車やバイクの運転免許以外に大型車や牽引の免許を取得しており、工事現場で使われるユンボの操作・運転をする免許も持っているそうです。

しかも、ユンボのバケット部分に筆を取り付け、そのユンボを操作して半紙に文字を書いてしまうほどの腕前。

実は坂田氏はレース活動をする一方で、工事現場でユンボを操作したり、トラックやダンプカーの運転手をして稼いだお金をレース資金に充てていました。

また、MotoGP™に参戦する前の全日本時代は、レースの賞金を全日本の次のレース費用に充て、ダンプカーの運転手のアルバイトでMotoGP™参戦のための資金を500万円貯金。

そしてMotoGP™1993年シーズンを2位で終えた坂田氏は、オフシーズンに千葉県内のカラオケ店で時給600円のアルバイトをしていました。

それはアプリリアのマシンに乗ってチャンピオンを獲得してもアプリリアから十分なサポート得ることがでなかったため、1994年初のチャンピオン獲得後もオフシーズンにはユンボのアルバイトをしていたそうで、レースだけに集中できる体制ではなく資金調達のためのスポンサー活動やアルバイトを欠かさず行っていたのです。

MotoGP™125ccクラスのトップライダーがオフシーズンにアルバイトをしていたとは、チャンピオンになっても資金面での厳しい状況が変わらない事実に驚きが隠せませんでした。

 

まとめ

 

 

坂田氏は、MotoGP™での日本人ライダーのレベルを一気に高めた人物です。

彼がいなければ、当時の125ccレースで日本人ライダーがトップグループを形成するという状況は無かったかもしれません。

そして自らが集めた資金を元に世界に挑戦し続けた姿勢は、ライダーとしてではなくアスリートとして尊敬に値する存在。

不屈の精神をもつ坂田和人氏は、我々バイクレースファンにとって忘れられない伝説のライダーの1人なのです。

 

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