ル・マン24時間耐久レースで総合優勝を飾るなど、日本を代表すると言っても過言ではないレーシングドライバー、関谷正徳氏。今回は、そんな関谷氏が各時代を共に戦ったレーシングカー、特にツーリングカーに注目。ご紹介していきます。

 

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最初の一歩、マツダロータリー

 

出典:http://www.bosozokustyle.com/2009/05/26/rare-bosozoku-cars-mazda-savanna-rx3/

関谷氏は1949年、静岡県に生まれます。

そして専門学校を卒業後、1972年に静岡マツダに入社。

当時、静岡マツダがマツダのレース用スポーツキット取扱店だったこともあり、会社の先輩たちと共にチームを結成。

富士スピードウェイでのレースにファミリア・ロータリークーペで参戦を始めたのです。

そして次戦からはカペラへ、更にサバンナへと車両を変更し、同時期に碧南マツダより参戦していた中嶋悟氏と共に頭角を現し始めます。

そして77年には富士スーパーツーリング(後のスーパーシルエットシリーズの前身レース)でシリーズチャンピオンを獲得。

次のステップへと踏み出すのでした。

また、チャンピオンを獲得したサバンナという車ですが、TS規定で禁止されていたペリフェラルポートが1973年より解禁となっており、この頃には約250psを発揮。

800kg台という軽量ボディとの組み合わせで一級の戦闘力を発揮し、通算100勝をマークしたということは記憶に留めておきたいところです。

ちなみに、サバンナは「RX-3」と呼ばれる事がありますが、これは12A型ロータリーエンジンを載せた輸出仕様の名称が元で、日本での発表当時に12A搭載車が設定されていなかったため、1972年にホモロゲ―ションを取る際に「サバンナRX-3」という名前で申請されたことが愛称の元となっています。

 

フォーミュラーを経て再びツーリングカーへ

 

出典:https://r32taka.com/tag/drifting/

関谷氏は富士グラチャンシリーズでの活動の後、渡英し英国でのフォーミュラーレース参戦を経て、1982年に帰国後TOM’Sと契約します。

そして童夢が開発し、TOM’Sが走らせたセリカを模したCカーを手始めに、再び日本でのレース活動を再開させたのでした。

その後、1985年より開始されたグループA規定の「全日本ツーリングカー選手権」にも参戦。

AE86型カローラ・レビン、AE82型カローラFX、MA70型スープラなどを走らせました。

中でもMA70型スープラは1987年からグループAに参戦し、デビューウィンを飾りますが、1988年よりターボ係数が1.4から1.7へ変更された為、参戦クラスが4.5リッター未満のクラスから5.5リッター未満のクラスへと2クラス上に変更となり、最低重量が増加した結果、苦戦を強いられる事に。

その打開策として大型タービンと大型インタークーラー、そして冷却性能向上のためバンパーに開口部を設けたエボリューションモデル「ターボA」を1988年8月に発表し、規定台数の500台を生産しますが、重量面での不利は隠せず日産のR32型スカイラインGT-Rと入れ替わるように姿を消したのでした。

その後TOM’Sはクラス1のAE92レビンに特化し、関谷氏もドライブしますが、同クラスのEF型シビックと激しい鍔迫り合いを繰り広げたものの、レギュレーション上優位なタイヤ設定が出来たシビックに対して劣勢を強いられました。

そしてその後5バルブヘッドを持つAE101へ進化しますが、やはりEG型へ進化したシビックに対してもなかなか勝てない勝負が続いたのでした。

 

体当たり上等!激戦のJTCCへ

 

出典:https://www.drive2.com/b/1475058/

1993年限りでグループA規格でのJTCが終了し、1994年からはイギリスのBTCCに倣ったクラス2規定のJTCCへ移行すると、TOM’SはBTCCでも実績のあったコロナで出場します。

同じくBTCCで実績のあった日産のP10型プリメーラと互角の戦いを見せ、関谷氏がドライバーズタイトルを獲得しますが、BMWのワークスのシュニッツァーがBMW318iでチームタイトルを獲得し、グループA初期のような「日本車対ドイツ車」の様相を見せ始めました。

翌1995年からはコロナから低重心・ワイドトレッドのコロナ・エクシブに変更して戦いますが、最終戦での波乱劇によってBMW318iに乗るスティーブ・ソパー氏に逆転を許し、タイトルをさらわれてしまいます。

 

出典:http://www.ed-exiv-club.ru/forum/gallery/image_page.php?album_id=5&image_id=153

 

翌1996年は、JTCCが始まって以降苦戦の続いていたホンダがシビックからアコードに変更。

一転して連勝を飾り始めるとワークス同士の競争は激化する一方、バブル崩壊の余波もあり観客動員数も徐々に減り始めていきました。

その後、ホンダが1996年、1997年と2年連続チャンピオンを獲得するのと同時にJTCCからの撤退を表明。

続いて日産も撤退を表明し、1998年シーズンはトヨタのワンメイクに近い様相となってしまったのです。

その為、結果的に最終年となってしまった1998年シーズンに関谷氏は2度目のチャンピオンを獲得。

こうして関谷氏はJTCCの最初のチャンピオンと最後のチャンピオンを獲得する事になりました。

 

Photo by Iwao

また、JTCCで最後に乗ったマシンでもあるJZX100型チェイサーですが、市販車の最強グレード「ツアラーV」は280psを発揮する1JZ-GT型直列6気筒ツインカム・ターボエンジンを搭載し、マークⅡ兄弟の中でも特にスポーティセダンと呼べる性格を持つ車でした。

しかし、JTCC用はエンジンを3S-Gに換装され、ドライバーの着座位置も後退させ、マスの集中化と重量バランスの適正化を図った全く違う車です。

 

全日本GT選手権への参戦、ル・マンでの勝利、そして引退へ

 

全日本ツーリングカー選手権と並行してグループCなど他カテゴリーでも活躍していた関谷氏ですが、1995年のル・マン24時間耐久レースにて日本人初の総合優勝を飾り、歴史にその名を刻む事となりました。

その時乗っていたのがマクラーレン F1 GTRという車でした。

 

出典: http://www.topspeed.com/

 

マクラーレン F1とは、F1マシンの設計で有名なゴードン・マーレ―氏が「公道を走るF1」をコンセプトに造り上げたスーパーカーで、フォーミュラーカー同様、センターに運転席を配し、その左右後方にに助手席を配置する少々変わったレイアウトとなっています。

そしてその背後にはBMW製V型12気筒DOHC6.1リッターエンジンを搭載、627hp(≒635.7ps)を発揮し、ほぼF1のようなディメンションと構造が相まって相当な高性能ぶりを見せつけ、当時は世界最速の市販車と言われていました。

 

Photo by Yamato.

また、1995年からはJTCCと並行してTOM’SよりJZA80型スープラで全日本GT選手権にも参戦し、ドライバーズランキングも1997年には3位、1998年・1999年には2位を獲得。

その後、2000年10月に引退を表明し、現役生活に幕を下ろしました。

 

まとめ

 

現在はSUPER GTではチームTOM’Sの監督として、そしてフォーミュラートヨタ・レーシングスクールの校長として、更に富士スピードウェイを舞台にしたインタープロトシリーズを開催するなど、後進の育成や文化としてのレースを確立すべく奮闘している関谷正徳氏。

精力的に活動されている姿を、これからも応援したいと思います。

 

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