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ホンダを「世界のHONDA」にした男。ジョン・サーティースよ永遠に

2017年3月10日、伝説的なレーサーが83歳でこの世を去りました。2輪での世界制覇後、F1を主戦場に4輪に転向し、フェラーリで世界王者となったジョン・サーティース氏です。私たち日本人にとって、彼が「世界のHONDA」の立役者であったことも、忘れてはならない事実なのです。

©︎鈴鹿サーキット

フェラーリのエースから「ホンダ・ファミリー」へ

1964年、フェラーリで初のF1チャンピオンの座に就いたジョン・サーティースは、1966年フェラーリとの関係悪化によりクーパーへ移籍したものの成績は振るわず、シーズン1勝と苦渋を舐めるシーズンを過ごします。

そこへ声をかけたのは、海を越えてF1に挑んでいた、ホンダF1チームの村上良男氏でした。

「ホンダのファミリーになりませんか?」

サーティースはホンダの熱意に惹かれ、1967年シーズンからのチーム入りを決意します。

しかし重量が重い「ホンダ・RA273」は、まだまだ勝利を争うには程遠いレベルのマシンだったのです。

繊細なメカニズムを持つホンダ・V12のパワーは圧倒的でしたが、「ロータス・49」が先進的な軽量アルミ・モノコックを採用し、ライバルを圧倒し始めていました。

 

ローラとホンダ、パートナー関係成立へ

©︎鈴鹿サーキット

サーティースはホンダを勝てるチームにする為、自ら行動を起こします。

1961年シーズンを共に戦ったコンストラクター「ローラ」に、ホンダ用シャシーの設計を依頼したのです。

当時のローラはアルミモノコック・シャシーの開発では随一のノウハウを誇るコンストラクターでしたが、F1からは手を引いていました。

サーティースは「6週間」というタイムリミットを条件としましたが、それでもローラのエリック・ブロードレイはこれを承諾。

こうしてシーズン後半、第9戦イタリアGPでデビューを果たした「RA300」は、サーティースのドライブで何とデビューウィンを飾るのです。

これはホンダの「第一期・F1活動」における2勝目となりました。

サーティースとホンダは大きな手応えを掴み、「3年計画」としてシリーズ・チャンピオンになるべく開発を進めていきます。

1968年シーズンには進化版の「RA301」を送り出しますが、チームメンバーの経験不足などもあり勝利を挙げることは出来ませんでした。

そして翌1969年シーズンを最後にホンダは”一時撤退”となり、静かにF1の舞台を去って行ったのです。

 

まとめ

2009年、サーティースは最愛の息子でありレーサーのヘンリー・サーティースが、レース中の事故で亡くなる悲劇に見舞われます。

そのとき、彼のもとに本田宗一郎氏の妻・さち氏から「家族の一員として、心からお悔やみ申し上げます」という手紙が届いたというのです。

40年以上の時を経ても尚、ホンダの人々はサーティースを”家族”と慕い続け、彼もまた特別な感情を抱き続けていました。

2017年シーズン、F1の舞台で闘い続けるホンダに、ジョン・サーティース氏は天国からどんなエールを送っているのでしょうか。

心からのご冥福をお祈り申し上げます。

 

参考文献レーシング・オン No.458

 

 

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Shinnosuke-Miyano

20代の頃はメカニックをしたり、お洋服の仕事をしたり、とりとめのない日々を送ってきました。 クルマの楽しさやレースの奥深さを、時にマニアックに、時にエモーショナルにお伝えしていければと思います。 https://www.facebook.com/shinnosuke.miyano

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